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心惹かれる木造アパート10 [思い出・雑感]

いい加減に終わらなくては…。というわけでこれが最後の「心惹かれる木造
アパート」シリーズです。

どうして木造アパートに惹かれるのか?その理由は簡単で、実際に7歳から
20歳まで私が木造アパートで過ごしたからだ。多感な時代に、いつも私を
迎えてくれたのはちっぽけなその空間だったからだ…。

私はいつも何かに飢えていたような気がする。その飢えを満たしてくれる
ものは最終的に見つからなかった。なぜ、見つからなかったのか?それは
やはり借りものと、所有しているものの違いであったのかもしれない。

アパートは、つまり借りものだ。自分に合わせるものではない。自分が
合わせるもの。既製品に、既存の考え方に、摺り合わせることによって、
初めて機能するものだ。

けれども、それはそれではかない美しさがある。まるで成就しない恋のように、
永遠に自分のものにならないもの。恋は成就しないことが前提で、美しいまま
その記憶を心に焼き付ける。

今までこのシリーズで書いてきたことは、自らの子ども時代を振り返りながら、
その帰結する場所としての脆弱さ、そのはかなさが本当のところは魅力であった、
ということだ。

多くの人たちのどれほどが自分が過ごしてきた空間が、いかに人格形成に大きな
影響を与えてきたかに気が付いているだろうか…?。私は母子家庭、そして母親は
水商売であった。よって夜はひとりで過ごさざるを得なくなった。窓辺に座って
夜空を見上げたのは決して星を見るためではなかった。

木造アパートは、また人々の人情や日々の営みの中で感じる喜怒哀楽を見事に
投影する鏡だった。もがいたり、苦しんだりすれば、やがて必ず報われる。
それを信じることが、今のこの空間に身をやつしている自らへの免罪符になる
と信じられたからだ。

私には、ある意味その切なさが、とても尊いもののように思えるのだ。満たされ
ない何かに自分自身の気持ちを奮い立たせること。それは、現状に甘んじるか、
あるいは希望に満ちた未来を信じて新たな道を突き進むか、という選択肢を突き
つける。

私がかつて過ごした木造アパートは、もうすでに取り壊されている。今の自宅から
それほど離れた場所ではないので、時々その辺りを通ることがある。すぐそばを流れ
ていた小川は覆われ、道路になってしまっているのでもう見ることは叶わない。

そして私は、相変わらず木造アパートを見つけるたび、そこに暮らした人々の痕跡を
懐かしく、愛おしく想像するのだ。      (終わり)


心惹かれる木造アパート9 [思い出・雑感]

しかし、赤福餅、そんなに食べたいものですか?いやはや、私にはどうしても
理解不可能な熱烈なファン?の方々が、偽装なにするものぞ!との心意気で行列
つくってまとめ買い。

小学6年になった私は野球部に入り、そして日曜学校に通うことにした。
おいおいいきなりどうしたんだ?というそれまでの私からは想像できない
不可解な行動。その理由はごく簡単で、近所に住んでいたミッション系の
高校に通っていたおねーさんに誘われたからだ。

キリスト、プロテスタント、聖書、賛美歌…。不謹慎で申し訳ないが、これらの
言葉に私は妙に弱い…。さらに、その言葉を同級生の前で口にする私。その姿は
あたかもウイーン少年少女合唱団の一員のような、美しい輝きに満ちている!(はず)
目の中に星が三つくらいの自己陶酔。ま、こんなこともあって、あっさりと日曜
学校に通うことに決めた私だった。

日曜日の朝、あれは何時頃だったのだろうか?8時前だったような気がするが、
日曜学校のクルマが迎えにやってきた。小さなトラックを改造したようなクルマで、
運転席と荷台は仕切られていて、乗り込む時は後ろに取り付けられた特別なドアを
あけて中に入った。自衛隊や軍隊の人が運ばれて行くみたいに横並びに座って教会
に向かった。

教会での話は、わくわくするほど面白かった。イエスさまが誕生する時の話、
磔にされる時の話、蘇る話…。これらの話を自分で映像を想像しながら聞く。
これがすこぶる楽しいものだった。マリアさまが馬小屋にいる…、ということは
馬がいて、干し草がうずたかく積まれていて、農具とかが置いてあって、電気は
ないから、ランプが下がっていて…。

しかし、子ども心にいちばん刺激を与えたのは「ノアの箱船」の話だった。
動物たちが船に乗り込んでいくシーンを想像しながら、こんな船に乗る
ことができたら、うれしいだろうなー、などと思って聞いていた。

日曜学校では、夏休みに1泊で田舎の教会にもでかけた。それから、クリスマスに
名古屋市公会堂に行って、みんなで練習した賛美歌を歌ったりもした。何だか垢抜
けた時間の過ごし方をしていないかな?私はひとりで悦に入っていた。


心惹かれる木造アパート8 [思い出・雑感]

さて、日曜学校の話で始まるかと思いきや、今回はグローブの話でござんす。

小学5年、11歳の時に初めて野球のグローブを買ってもらった。美津濃の
グローブで、当時は優勝カップのマークが付いていた。うれしくて、うれしくて
たまらなかった。

住んでいた木造アパートの敷地内にはモルタルでできた四角い大きな洗濯場が
あって、夏はそこに入り込んで足を洗ってから部屋に上がった。私の住んでいた
部屋は2階の205だった。本当は4番目だったのだが、204はなかった。
おふくろは4は縁起が悪いからだと説明したが、釈然としなかった。だって、
4番目は4番目だし…。

敷地内には隣地との境界にコンクリートブロックでできた壁がつくってあった。
その壁に向かってボールをぶつけて遊んだ。まだ近所には空き地がいくつもあり、
もちろん勝手にそこで遊んでも誰にも注意されなかった。そして、その空き地では
子どもたちがしょっちゅう草野球をしていた。

見ず知らずの子どもでも、うまく交渉すればその草野球に参加させてもらえた。
私は、よく中学生のグループに頼んでチームに入れてもらった。絶対ダメ、と言わ
れることもけっこうあったが、全然めげることなく、また違う空き地で草野球を
している連中を見つけに行った。なんたって、私にはグローブがあるのだから。

交渉する時にはいつもこう言った。「あ、自分のグローブ、持ってるから…」。
その頃、私には野球のセンスがあることに気が付いた。なぜなら中学生のチームに
入っても、全く引けを取ることなく、そこそこ打てたし、守備もうまかったからだ。

ある時、例の小川にグローブを落としてしまった。しまった!と思ったが後の祭り。
私のグローブは悲しいほど縮んでしまった…。内心ショックだったし、人に見せる
のもはばかられるような小さなグローブになってしまった。けれども、新しいものを
買って欲しいとは思わなかった。私にとって、その惨めに萎縮したグローブはおふくろ
の彼氏が、私のために買ってくれた大切なものだったからだ。

翌年、私は学校の野球クラブに入部するのだが、しっかりそのグローブを抱きしめて
練習した。近藤という名前の野球部を担当していた教師がいて、そいつがいつも
「何だ、このグローブは、赤ん坊用か?」と馬鹿にした。嫌なやつだった。


心惹かれる木造アパート7 [思い出・雑感]

というわけで(何が?)性懲りもなくまだまだ続く、青春巨編。ごめんなさいね、
みなさん、つきあわせちゃって…。

それまで子ども心に感じていた日本人としての誇りは、実は過去に築いてきた
帝国主義的思想であったり、アジアの盟主的なアイデンティティであった。
あな、恐ろしや…。敗戦国日本に生まれた私たち昭和20年代生まれは、まだ
ある意味、大東亜共栄圏構想をすり込まれたままだったわけだ。ただ、現在の
私は、誤解を恐れずに言うのであれば、あながち大東亜共栄圏構想が全く間違
っていたとは思ってはいない。戦略は正しい方向を向くことは可能であった。
戦術を間違えたのだ。ま、よくあることさね。

そして、東京オリンピックや、新幹線開通は、そういった呪縛からの脱却を図る
上では絶好だった。(そういえば戦後レジームからの脱却、なんていうことを誰か
が言っていましたが…)なーんだか、これからはロシアのバルチック艦隊を
破ったとか、旋回性能に優れた戦闘機をつくったとか、ではなくて、もっと
違ったことで日本は胸を張れるような気がしてきた。確かに日本のSONYって、
CANONって、かっこいい。そんな気分が生まれてきた。

しかし改めて思い出してみるのだが、あの頃はほとんどゴミが出なかったような
気がする。私の勘違いかもしれないけれど、生ゴミもあまり出なかったと思う。
醤油がなくなれば瓶を持って行って入れてもらったし、八百屋が野菜を入れて
くれる袋は新聞紙でできていた。肉屋は肉を竹皮に包んでくれた。そういった
ものはどのように処理されていたのか?そこまでは知らないけれど。(余談)

さて、変なことに悩んだり、興味を持ったりしながら過ごしてきた私は、何と!
小学5年生になっていた。(当たり前ですが)防空壕に入ることは、ちょっとした
冒険としてリストアップされてはいたが、親や学校にばれると叱られるしなぁ、
という日和見的な考えによって実行されないままだったし、近くの林の中で野宿
する計画も頓挫していた。

夏を迎えた私は、名古屋大学にある池でトンボ捕りに夢中になっていた。オニヤンマ、
ギンヤンマ、扇ヤンマなど、大きなトンボが池の上を飛んでいた。それを下から
タモを振り上げて捕る。これが殊の外楽しかった。さすがにヤンマはでかくて迫力が
あった。胴体にストライプが入っているヤンマは、なぜだかとてもかっこよかった。

蝉捕りは、ほとんどニイニイゼミとアブラゼミしか捕れなかった。カブトムシは
今ほど人気はなかったので、神社にあった樹木にいるのを捕まえたりもしたが、
さほどのうれしさも感じなかった。それよりも玉虫の方がずっとうれしかった。
玉虫は見る角度によって色が変わる。どうとでも受け取れることを、玉虫色の
解決法なんて表現するけれど、きれいな虫だった。形も好きだった。触角が
伸びていて、スリムで、四角張ったボディが魅力的だった。

木造アパートに住み始めて、5年目になっていた。アパートの周辺にはだんだん
自然が少なくなってきた。そんな頃、私は唐突にプロテスタントの「日曜学校」に
行くことに決めた。   (それでも、まだまだ続いちゃいます)


心惹かれる木造アパート6 [思い出・雑感]

私が小学4年生だった年、それは昭和39年。つまり東京オリンピック開催とか、
東海道新幹線開通とか、テレビカラー放送本格化の年だった。何と言えばいいのか
難しいのだが、この年は「過去から未来」という感覚の年だった。

それまでは小松崎茂画伯の描く戦争物のイラストとか、戦記物の漫画が大好き
な子どもだった私はどういうわけだか「未来」を意識し始めた。それまでは
明らかに「過去」を振り返ることが、私にとっての楽しみだったのに…。

当時、私の暮らしていた木造アパートの周辺には、まだまだ戦争の遺物とも
いうべき「防空壕」がそこかしこに残っていた。一応、入り口には金網などが
張ってあって入れなくなっていたが、その闇の先は紛れもなく「過去」につな
がっていた。

零戦と戦艦大和。どうして世界最強の戦闘機と、世界最大の戦艦を有した日本が
戦争に負けたのか?イラストや漫画の中の日本軍は無敵だった。後に知るP-51
ムスタングの高性能は、改めて時代の趨勢をかみしめるのに十分なスペック
だった。紫電改も鍾馗も実のところは無力に近かったのだ。

しかし、そんな日本の子どもたちは、本気になればとてつもなく強い国、日本を
違う角度から見ることになった。女子バレーボールチームや柔道選手、そして2位で
国立競技場に戻ってきたマラソンの円谷選手。ヒートリーとのデッドヒートは
子どもの心を日本の国旗の色に染めた。惜しくも3位になった時、私はうれしさと
悲しさでないまぜになった自分を知った。

日本中を興奮のるつぼに陥れたオリンピックは、いざ開催されてしまえばあっと
いう間に終わってしまった。次の年、小学5年生になっていた私は、相変わらずの
夏を過ごしていた。


心惹かれる木造アパート5 [思い出・雑感]

昼の間は学校があるので、夜への怖れなど全く忘れて過ごしていた。端から見れば
ただのやんちゃな小学生だ。しかも人前ではことさら元気を装うという小芝居に
長けていたので、なおさら誰も気付かない。その頃の毎日の生活は、小学校から
アパートに帰ると、銭湯に行く。それから母親が仕事に出るまでのわずかな時間、
外に遊びに出かける。夕方、再びアパートに戻る。といった感じだった。

母親は大相撲が好きだった。大鵬を応援していて、結びの一番を見終わってから
出て行った。外から鍵をかける音を聞くと、いつも私は観念した。つくってくれた
夕食が卓袱台にのっている。それを好きな時間に食べる。それからテレビを見る。
プロレス中継では力道山より吉村道明の「回転エビ固め」に興奮して、布団を使い
それを試してみたりした。

ララミー牧場が始まる頃、眠くなってくる。眠気を感じると同時に、頭の中の
どこかにあるスイッチがオンになり「人はなぜ…?」が始まる。布団に入り、
泣く。ひとりきりだという感覚がひしひしと襲ってくる。それが嫌でテレビも
消さないし、電気も消さない。

こういった期間がどれほど続いたのか、それは覚えていない。数日間だったのか、
あるいは数ヶ月間だったのか…?アパートの天井の木目は、溺れそうになって
懸命に手足をばたつかせる私を飲み込む波だった。けれども私は、そんな状況を
打破する有効な手だてをふたつほど発見した。

ひとつは「本」。小学生向けの物語や世界名作全集を読むこと。これが驚くほど
有効だった。この年になっても変わっていないが、枕元に本を置き必ずそれらに
目を通してから眠る。「路傍の石」「次郎物語」「家なき子」「小公子」など…。
「路傍の石」の吾一が理不尽な目に遭うことは、逆に社会に対する奇妙な反骨心を
刺激した。

もうひとつは「懸賞」に応募すること。これは少しでも明日が待ち遠しくなる
ようにすれば、夜を迎えることがが怖くなくなるのではないか?という子どもなりの
知恵だった。少年サンデーや少年マガジンの懸賞に毎週応募した。そして当選発表を
心待ちにして過ごすようにした。当たりはしなかったが、気付けばいつしか怖れは
霧散していた。こうして私は「死、あるいは孤独への恐怖感」を誰にも知られること
なく、克服?することに成功した。やれやれ。   (まだ続く)


心惹かれる木造アパート4 [思い出・雑感]

そして、死ぬことへの漠然とした怖れを感じていた時期に母親が骨折して入院した。
手術後の経過が思わしくなかったために再手術をしたり、輸血された血液が売血者の
血液で、水で薄められていたらしく黄疸にもかかってしまった。入院していた期間は
1ヶ月ほどだったと思うが、私はひとりで寝起きして小学校へ通った。そもそも人に
何かを依頼するという発想がなかった。ましてや面倒をみてもらう、などあり得ない
ことだったからだ。

あれほど、死というものと対峙しようとしていたくせに、母親の手術には何の不安も
感じなかった。やはり死は差し迫った問題ではなく、宇宙の構造と同じように頭の
中で把握することができない不可解なものであったのだろう。

3〜4歳の頃、私は祖母の最期を看取った。布団に寝ていた祖母はおそらく病気だった
のだろうが、どういうわけか病院ではなく自宅にいた。のどが渇いたと訴えたので、
私がガラス製の水飲みで水を飲ませた。水飲みは病人が飲みやすいようにカーブした
ガラスの吸い口がついていた。その先を口元に咥えて祖母は水を飲んでいた。透明な
ストローのように、水が祖母の口の中に流れていくのを眺めていたら、ふいに水が
水飲みの中に戻っていった。そして祖母の口元から水が一筋、流れた。私は家族に
こう言った。「おばあちゃんが水をこぼしちゃったよ」。

つい先ほどまでのどが渇いた、と私に意思表示をしていた祖母はあっけなく死んだ。
後々になって気がついたのだが、この祖母の死も心の中に引っかかっていたのではない
だろうか。その時も釈然としないものが残った。訳の分からない力?に祖母は連れ去ら
れていったような気がした。

孤独感とか焦燥感とか敗北感とか、これらを自我と呼ぶのかもしれないが、それまでは
大勢の中の自分であったのに、母親が入院をしたこの頃から自分の中の自分が姿を
現してきた。そしてそれは、身の回りで起きている現実を直視した結果もたらされる
悲しみだった。頼る人などはいない。自分のことは自分でする。

いつもひとり。触れればもちろん手応えも体温もあるはずの母親でさえ、深い溝に隔て
られた存在のように感じた。そうなんだ、人は、生きものは、ひとりなんだ。これを
きちんと覚えておかなくてはいけない。私はこの言葉を脳みその中で反芻した。
 (続く)


心惹かれる木造アパート3 [思い出・雑感]

ある日から、私はひどく落ち込むようになった。それは小学3〜4年の時期だった
と思う。自然のさまざまは、私にとってどう生きることが幸せなのか、という
ことを教えてくれた代わりに、生命のはかなさをも同時に突きつけた。

素晴らしい飛距離を見せてくれたトノサマバッタも、釣り糸をあれほど強烈に
引っ張った鮒も、鎌をもたげて威嚇したカマキリもあっけなく死んでいった。
住んでいた、生きていた、その場所に置かれていればまだまだ十分に生を謳歌した
かもしれない生きものたちは、私が関わり、その場所から彼らを連れ去ることに
よって、いともあっけなく骸に変わった。

美しい色彩を身にまとい、理にかなったプロポーションで私を魅了した彼らは、
自らにふさわしい時間の経過を経ることこそ幸せであることを教えてくれた。
しかし誰もが皆平等に与えられた時間を全うできるわけではない。思わぬ存在の
恣意的な行動や干渉によって、それは叶わなくなる。

こうして文字にしたため推敲したわけでもない当時、そのことは怖れとなって私の
心の中を独占していった。有り体に言うのであれば、私は「死ぬことへの恐怖」を
意識し始めたのだ。

窓枠に腰掛けて夜空を見上げて悲しみを重ねた、と表現したのはその頃のことだ。
抗えないもの、どうしようもないもの、動かせないもの。巨石に行く手を阻まれた
ような悲しみ?虚しさ?に私は落ち込んだ…。

母親が水商売であったこと、そしてひとりっ子であったこと。それがたったひとりで
夜を過ごさなくてはならなかった事情だ。おかげで誰ともしゃべることなく、思う存分
自分だけの想像の世界で私は、夜、飛ぶことができた。

生きものは、そして、人はなぜ死んでしまうのだろう?子どもの私にとって、これは
かなり難しい問いであった。今でもはっきりと覚えている。私はあの頃、こう考えて
いた。「ってことは、死ぬために生きているのか?」    (続く)


心惹かれる木造アパート2 [思い出・雑感]

しかし、その川でもっともよく捕まえたものはザリガニだった。赤い色をした
アメリカザリガニ。わたしたちは「マッカーサー」と呼んでいた。身体が赤いのと
アメリカから来たことを引っかけて、こういう呼び名になったのだろう。川の
ザリガニは危機を察知すると、泥を巻き上げて煙幕を張るようにして後ずさりした。
こいつをタモですくうか手でつかむわけだ。近所にはため池のような小さな池も
あって、ここにいるザリガニは川で捕まえてきたザリガニの身を餌にした。
ザリガニの身をたこ糸に縛り付けて、またザリガニを釣るわけだ。

その小さな池は梅雨時になると、アカガエルがいっぱい繁殖した。きれいな色を
したカエルで、小さなアマガエルの緑色もきれいだったが、アカガエルのオレンジ
がかった色も美しかった。もちろんヒキガエルやトノサマガエルもいっぱいいた。
冬から初春にかけて、林の中の水たまりにはそういうカエルの卵がゆらゆらしていた。
縄のような形状で外皮はゼリー状になっていて、小さな丸い卵が見えていた。
いつも遊びに行く林には多くの命が、絶え間なく営々と本能に従って与えられた
「なすべきこと」を行っていた。

私が暮らしていたアパートは、そういう息吹や営みを発見に行くための言わば「基地」
のようなものだった。窓枠に腰掛けて幾度、昼の、そして、夜の空を見上げたことだろう。
猛々しく育った夏の雲には希望を重ねた。肌寒くなった秋の夜空には悲しみを重ねた。
物言わぬ自然のさまざまは、抗うことのできない流れの中で、どう生きることが
幸せなのかを私に示唆してくれた。    (続く)


心惹かれる木造アパート1 [思い出・雑感]

木造の古いアパートに心惹かれる。

私が小学校の1年から20歳になるまで過ごした家?は、木造モルタル塗りの
2階建てアパートだった。そのためなのか、どうにも古い木造のアパートが
気になる。

近頃はデジカメを携行して、見つけると撮影したりしている。いかにも
懐古趣味の極みであって、齢53になった人間のセンチメンタル、といった
趣だ。

そのアパートはありふれた名前だった。どうしてこういう名前が多かったのか
知る由はないが「葵荘」という。最近はあまり耳にしないかもしれないが、
所謂「木造モルタル塗り」というやつだ。さて、モルタルとは?まぁ、土と
コンクリートのあいのこみたいな、おそらく当時の定番の外壁仕上げだったの
だろう、それだった。(そういえば近くで建つ家は壁の中に竹を藁の紐で束ねて、
さらに黄土色の藁が混ざり込んだ泥のような土で固めたものが多かった。所謂
「真壁式」という工法だ。それなりに理にかなった工法だと思ったが、もう
すっかり姿を消してしまった。)

昭和30年代のことだから、いかに名古屋の住宅地といえども、その頃は
まだまだ自然が当たり前のように、そしてもちろん、いくらでもあった。
まさしく隔世の感…。

アパートの前には芋畑が広がっていた。サツマイモの畑だったが、そのサツマイモは
いかにも細くて蒸して食べたがあまりおいしくはなかった。但し、この芋畑には
やたらとコオロギがいた。ほとんどがまるまると太ったエンマコオロギで、メスは
大きなおなかをしていて、尻に針を付けていた。この針を土の中?に差し入れて卵を
産むのだろう、と思っていた。

アパートの北には1軒民家があったが、その民家のさらに北側には小川があった。
この小川は名古屋大学の中にあった池からの流れと山崎川が合流したもので、
川幅は3メートルくらいだった。両岸は丸太で支えられていて、川に降りようと
思えば簡単に降りることができた。さしずめ地面からは1,5メートルほど下がった
ところが川面だった。深さはわずかなものでせいぜい30センチほどだった。

その小川にも多くの生きものがいた。正しい名前は知らないが、羽黒トンボと
呼んでいたトンボをよくつかまえた。いかにも繊細な感じのトンボで、華奢な
胴体を丸くして水面で踊るように産卵していた。   (続きます)


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