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きれいな恋の話2 [思い出・雑感]

数年前、ある女性がまだおそらく40代で亡くなった。癌で亡くなった

と聞いた。私は、友人を通してその女性のことを知っていた。彼女には

お子さんがひとりいて、成人していなかったのではなかろうか、随分と

悲嘆に暮れたようだ。

 

その女性がまだ二十歳くらいだった頃、付き合っていた男性がいた。

それが私の友人である。快活な男で、みんなに好かれていた。ただ、

高校中退で定職を持たず、いつもぶらぶらしているように見えた。

 

バーで会うと、ミュージシャンになるという夢をとうとうと語っていた。

そんな彼に彼女は惚れていた。やがて彼女は彼との結婚を意識し始める。

無論、彼にはそんな気はない。バイトで食いつなぐような生活をしていた

彼に「家庭を持つ」などということは想像もしないことだったからだ。

 

ふたりがそのバーのカウンターに座り、沈黙を続けているのを見る度、

私は居心地が悪くなり先に店を出た。

 

やがて彼は東京のライブハウスとの契約がまとまり、箱バンドのベース

担当としてミュージシャンデビューを果たすことが決まる。当然、彼女は

いっしょに行きたい、と彼に伝える。その時、彼女は大学4年生だった。

 

彼はその時「一瞬だけだけど結婚を考えた」。と後で私に述懐した。だが

それはある一言で消滅した。彼女の妹が何気なく彼に言った一言で…。

 

「高校中退の奴なんかとは、娘は結婚させない」って、お父さんが言って

いた…。と、喫茶店で彼女が席を立った時に、その妹はうっかり彼に

言ってしまったのだ。

 

彼女は、妹がそんなことを彼に言ったなんてことは全く知らない。それから

彼は彼女を避けるようになり、しばらくして東京に行った。彼は、妹から

言われたことは、決して彼女に言わなかった。おそらく、私のような友人

に、酒を飲んだ時に話しただけだろう。

 

何も知らなかった彼女も、きっとかなり落ち込んだのだと思う。しばらく

して他の男性との結婚を決めた、ということを風の便りで聞いた。それは

それで幸せになったのだろうから、ハッピーなことだ。

 

彼のその後は知らない。どうなったのだろうか?彼女が亡くなったこと

さえきっと知らないのだろう。ひょっとしたら日本にもいないのかも

しれない。

 

彼女の訃報を昔の友人から聞いた時、封印されたあの話を思い出した。

知らなかったのだから、知らないままでよかった。そうに違いない、と

思うことにした。

 

若い頃にはいろいろあるさ。ね、誰にだって…。


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お母ちゃん [思い出・雑感]

おじいちゃん、と呼ばれるのが嫌だから「じぃじ」らしい。

おばあちゃん、と呼ばれるのが嫌だから「ばぁば」だそうだ。

 

そもそも「パパ、ママ」でさえ違和感のある私にとって、こういう

呼び方はいかにもこそばゆい。いえ、決して否定しているわけでは

ござんせん。いいんですよー、別にそれで。

 

ただ何となく「お父さん」とか「お母さん」あるいは「おじいちゃん」

「おばあちゃん」、という呼び方もまんざら捨てたものではないなぁ、

と感じるだけでござんす。

 

私は恥ずかしながら子どもの頃は「お母ちゃん」と呼んでいた。

小学生の3年くらいから、それでは格好悪いから「お母さん」にしろ、

と母親に言われ「お母さん」と呼ぶことにした。

 

けれども高校に上がる頃になると、もうそんな風に呼ぶことさえ

できなくなり「ねぇ」とか「あのさー」など、そういう言葉をできる

だけ使わないで呼ぶようにした。もちろん外では「お袋」である。

 

小さい頃、それはまだ小学校にも上がらない頃、私は漠然と母親に

捨てられるような気がしていた。実際、所謂養護施設という所に

数日間預けられたことがあった。

 

だから、私は母親の後ろ姿が怖かった。そんなある日、母親がいつもの

オーバーを着て足早に歩いている後ろ姿を見かけた。これはえらいことだ。

いよいよ捨てられた!と思った私は「お母ちゃーん」と何度も叫びながら

必死で追いかけた。

 

泣きながら追いかけたが、やっと追いつきそうになった時に、振り向いた

人は別人、赤の他人だった…。

 

ま、それでも私はなぜだか「お母ちゃん」という呼び方が懐かしい。

私は母親を「お母ちゃん」と呼べた頃の自分が、今でも好きだ。


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去りゆく者 [思い出・雑感]

先日、中学時代の同窓会があった。卒業して、実に39年。今や

すっかり容姿に変貌を遂げた者、あるいは少なからずいい意味で

予想を裏切り、社会的ポジションを盤石にした者など…。

 

得てしてこのような催しには、現在の状況が本人的に歓迎せざる

状況である場合には、そいつは現れない。だから、おおむね、参加

した者たちの笑顔は明るい。

 

そしてもちろん齢54を数える歳ともなれば、当然逝去した者たちも

いる。病に冒され、過酷な闘病生活を強いられ、そして去っていった

彼らを思うと、やはり心にさざ波が立つ。

 

その一人にFがいた。Fとは中学時代によくいっしょに遊んだ。彼は、

勉強はあまり得意ではなかったが、それはこちらとて同じこと。

級友たちは抜群に優秀であったが(同窓会に行けばそうそうたる大学

OBや医師、歯科医などが集結する)すっかり自らの知的レベルに

愛想を尽かしていた彼と私は、遊ぶことに熱中した。

 

その彼が生前、私にこんなことを言ったことがある。8年前に開かれた、

同じように中学の同窓会でのことだ。FとN、そして私は当時、漫画を

描いていた。漫画家になりたい、という気持ちがあった。

 

それで3人の漫画を持ち寄って、ひとつの本にしようということになり、

雑誌風のタイトルを付けよう、ということになったのだ。つまり表紙を

つくって、漫画雑誌風にしようという魂胆だ。

 

そのタイトルは「ありんこ」。私が考えた(らしい)。当の本人は全く

覚えていないのだが、Fはそのタイトルがいたく気に入ったらしく、

そのことをずいぶん誉めてくれた。「あの名前はよかった!」幾度もFは

繰り返して言ってくれた。

 

なぜ、彼があれほど誉めてくれたのか?彼のどのような琴線に、あの

名前が触れたのか?それは私には分からない。ただ、彼を思う時に、

必ずそのことを私は思い出す。遠く、懐かしく。そして少し屈折した

子どもの頃の自分を、もういちどトレースしながら。

 


変わった子どもはどうなったか 2 [思い出・雑感]

中学生の頃から、私はなぜだかアパートの隣室に住んでいた7歳ほど
年上のお兄さんたち(二人)に気に入られていた。彼らは当時22歳
くらいだっただろうか。その二人は性格の全く異なる二人だったが、
高校を出た後にデザイナーになるために通っていた専門学校で知り合い、
いっしょにアパートを借りることにしたらしかった。その借りたアパートが
私が母親と住んでいたアパートだったわけだ。彼らはジャズやロックが
好きで、私にもよくレコードを聴かせてくれた。

高校生になると、名古屋のジャズ喫茶やロック喫茶をはじめ、京都のジャズ
喫茶なんかにも車で連れて行ってくれた。高校3年の時には箱根の芦ノ湖で
開催されたピンクフロイドのコンサートにも連れて行ってくれた。その時には
周りの外人がみんなガンジャをやっているのに驚いた。

そんなことも影響していたのか、東京は音楽を聴きに行くところでもあった。
高校3年の時にはピンクフロイドにも行ったが、EL&Pのコンサートにも
行った。後楽園球場で開催されたそのコンサートには友人の大学生たちと
行ったのだが、東京に住んでいる彼らの友人の家に泊まらせてもらうことに
なった。ところが行ってみたらそこは病院で、今は使っていない病室で寝ろ、
ということになり、随分と気持ちが悪かった。

高校を出てからは、事情もあって半年ほど東京(正確には西川口)に暮らした。
高円寺の「キーボード」という店にしょっちゅう行った。お金がないので、
いつもドライカレーを頼んでいた。本多芸能のアルバイトでサンタナのコン
サートや渋谷の選挙速報コーナーの警備員もした。当時はコンサートが始まる
数時間前に武道館に行くと、日雇いでバイトとして使ってくれたのだ。そして
1週間後くらいにバイト代をもらいに行く。これは私にとって、とても楽しい
バイトだったことを覚えている。

19歳で働くことになった私は、その頃つきあっていた彼女が東京の大学に
進学することになったので、再び東京にしばしば行くことになった。あの頃は
吉祥寺や下北沢にもよく行った。「赤毛とそばかす」「西洋乞食」「マサコ」
など、もう店の名前は失念してしまったがいつも音楽を聴くことができる
店に行っていた。


変わった子どもはどうなったか 1 [思い出・雑感]

先日、名古屋大学の大学祭に行ってきた。名古屋大学は私の家からなら
自転車で10分ほどの場所にある。いつも行く喫茶店でお茶を飲みながら、
お店の人と話していたら『今日は名大祭だから行ってきたら』なんて
言われたので、行くことにした。

応援団のパフォーマンスなどをひやかしながら、豊田講堂の方へ向かった。
どうやらその日はライブ演奏などが講堂内であるらしく扉が開かれ、
解放されていた。というわけで何十年ぶりかで中に入ってみたのだが、
いやそのかっこいいこと!やっぱり名作だ、と再確認して豊田講堂を出た。

槇文彦さんがアメリカから帰ってきて最初に設計したその作品は、今も
全く色あせていなかった。今から30数年も前の話だが、日野自動車の
コンテッサのデザインや11PMで見た久里洋二さんのアニメーションに
感動していた私は、高校生となっていた。

当時の名古屋で私が気に入っていた建築物は、アントニン・レーモンドさん
が設計した「ファースト・ナショナル・シティバンク」だった。鉄とガラス
で構成されたデザインは見事だった。(もうかなり前に解体された)

坂倉建築研究所の「近鉄ビル」は当時流行のカーテンウォール。柱の量感が
ユニークだった。(現存)石本喜久治さんが設計したデパート(丸栄)のファ
サードはあまり印象に残っていないが、エレベーターに東郷青児の絵が描いて?
あり、あの絵があまり好きではなかった私にはイマイチだった。(現存せず)

そういったものを見たり、知ったりすることが大いなる喜びであった私に
とって、どうしてもその作品を見てみたい!と思わせたものがいくつか
あった。そのひとつが倉俣史郎さんのデザインした店舗「ミルクボーイ」。
それから白井晟一さんの設計した「ノアビル」。そして東孝光さんの
設計した「塔状住居」だった。(今は塔の家、という表現が多い)

そして20歳の時、友人たちといっしょに車で東京に行き、遂にそれらを
見ることができた。うれしかった。その後、代官山集合住宅やフロムファー
スト、AXISなどを東京に行くたび見に行った。    (続く)


嫌いな言葉 [思い出・雑感]

どうにも嫌いな言葉がある。例えば「自分探しの旅」。それって、何さ?
これはするってえと、旅先のどこかには今、こうしてキーボードを打って
いる私とは違う「自分」がいて、そいつを発見すると御利益があるって
ことかい、え?

私が敬愛する車寅次郎さんが、やっていたあれかい?でもあれは、おそらく
違うような気がするぜ。あれは「自分探しの旅」なんかじゃぁないね。
厄介者が身の程を知って、どこかに居場所を求めて行脚していた。ただ結局、
探しあぐねた自分の居場所は葛飾柴又にしかないことに、途中で気が付いて
しまった。ってぇことじゃないかい。(無理な江戸弁やめます)

さて次は「自分で自分を褒めてあげたい」という言葉だ。この言葉はマラソン
ランナーの有森裕子さんが言った、ということになっている。実はこれには
後日談があって、本人はそういう風には言っていないということが判明している。
確か『褒めてあげたい』ではなく、『褒めたいと思う』だったような気がする…。

この言葉は、つまり物議を醸し出してしまったわけだ。きっと有森さんは、
『自分でも、よく頑張れたと思う』というニュアンスのつもりであったのに、
『自分で、自分にうっとりしてしまいました』的な解釈になってしまった。
それを多くの人が真似をして言い始めてしまったのだ。

これに追随して「自分にご褒美をあげたい」という言葉まで、いつしか登場して
しまった。主婦なんかがよく言っているのを聞いたりする。曰く「家事労働
って大変よね。だから、へそくりでエル○スのバッグ、買っちゃった」という
類である。だって、それは自分から自分へのご褒美だもん、ってか。

私はお尋ね申したい。自分を探す?自分で褒める?自分にご褒美?って、何なの?


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思い出のシャルル・ド・ゴール空港4 [思い出・雑感]

彼女が乗る予定の成田便は、なかなか搭乗手続きが始まらなかった。けれども
出発予定時刻は変わっていない。つまり飛行機のトラブルではなく、空港側の
何か問題らしかった。どういうことなんだろう?というちょっとした苛立ちと、
だったらいっそのこと乗り遅れてしまった方がいいのに、という微妙な気持ちで
私たちは空港の長椅子に座っていた。

その数時間前、私たちはサン・ジェルマン・デ・プレにあるAigleにいた。その日の
パリは雨が降っていた。そのせいなのか、家内は茶色と黒の長靴を欲しがっていた。
私はフードが付いている防寒ジャケットを買おうか買うまいか悩んでいた。

ここに来るまでに、いろいろな店のウィンドウをのぞきながらぶらぶらとこの界隈を
歩いた。彼女はWestonのかわいいローファーを見つけ、ずいぶん悩んだが買わなか
った。

結局Aigleでも何も買わないまま、デ・プレ教会のそばにある日本のアパレルメー
カーが経営している蕎麦屋に入った。値段の高さと量の少なさをふたりで毒づきながら
蕎麦を食べた。食事の後、彼女のスーツケースを取りにホテルに戻った。

大きな銀色のスーツケースは、今回の旅のために新たに買いそろえたRimowaだ。
それまではひとつしかなかった大型のRimowaは、これでふたつになった。そして、
そのひとつだけを持って、ふたりでRERに乗った。威勢よく蕎麦屋の悪口を言って
いたふたりは無口になっていた。行く先はもちろん、シャルル・ド・ゴール空港。

私はこのままパリに残り、明日市内を撮影したら翌々日の夕方にはフィレンツェ行き
の飛行機に乗る。そして、別件の仕事をしてくる予定だ。だから、彼女はひとりで
今日、パリから日本へ帰る。

搭乗手続き開始のアナウンスが入った。もうフライト時刻まで15分ほどしかない。
多くの人が待っていたのでなかなかチェックインができない。時間はとうとう残り
5分ほどになってしまった。これって間に合うのかよ?本当に定刻に出発するのかよ?
そんなことを思いながら、列の最後尾に並んだ彼女を見ていた。そしていよいよ彼女の
順番がやってきた。チケットを係に渡し、私を見て軽く手を振った。

ガラス張りの壁の向こうに、何度も立ち止まりこちらに手を振る彼女がいた。その姿は
少しずつ小さくなっていった。そして、見えなくなった。私は初めて経験する感情に
驚いていた。日本を出る時には、最後までいっしょに行動できなくて残念だね、という
くらいにしか考えていなかったことが、実はこれほど切ないことだとは想像もして
いなかったのだ。

空港からの帰り、RERの車中では、立ち止まって手を振る彼女の姿が、頭から消え
なかった。モンパルナス駅に着き、そして私は再び雨の中を歩いてAigleに行った。
まだ営業時間内だった。ふたりで店内を見て回った通りの順路で、改めて防寒ジャケ
ットが置いてあるコーナーへ行った。「いいじゃない、フードも付いているし」。
お昼にこの場所で彼女が言った言葉を思い出しながら、私はその防寒ジャケットを
買った。             
          
「思い出のシャルル・ド・ゴール空港」 終わり


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思い出のシャルル・ド・ゴール空港3 [思い出・雑感]

ユーロスターでパリに移動する。何回か乗ってはいるユーロスターだが、この
仕事の次にヨーロッパに来て乗った時に、実は私は失敗を犯してしまう。
みなさん、この高速度鉄道はもちろん日本の新幹線と同じようなもの、だと
思い込んでいませんか?いえ、私は思い込んでいましたとも。それでテーブル
の上に飲み物を載せていた。

するとカーブに差し掛かって車両が傾いた!案の定、テーブルの上に載っていた
飲み物(確か、ペットボトルのオレンジーナ)が床に転げ落ちてしまった…。
日本の新幹線は、多分あまりカーブがない。あったとしても緩やかな曲線を
通行していく。翻ってユーロスターは、そこそこのスピードのまま、それなりの
角度のあるカーブを走る。当然車両は傾く。テーブル上のものは転落する。
さすが日本の新幹線はすごいなー!などと思いながら、ジュースを拾った。

さて、パリに着いたのでホテルにチェックインに向かう。パリではこの季節(9月〜
10月)いろいろなイベントがあってホテルが満杯だったので、押さえるのには
けっこう苦労した。やっとこさ押さえたホテルは、それでもサン・ジェルマン・
デ・プレ。ブティックがたくさんあって華やかなエリア。モンパルナス駅にも近くて
すこぶる便利だ。ホテルの名前は「ロワイヤル・サン・ジェルマン」。いかにも名前は
高級だが、屋根裏部屋のような狭い部屋だった。もちろん本当に小さなホテルで、
でもそれはそれで十分である。

パリに着いた日は以前紹介されて知り合いになっていた日本人の方と会った。
オペラ座でピアノを弾いている女性の方で、この方に通訳をお願いして、ボーイ
フレンドがドライバーを担当してくれる。スタッフはこれで6人になった。夕食は
みんないっしょに「ミラマ」で中華料理を食べた。この店は玉村豊男さんの著書で
知って、以前にも何回か来たことがある店。和やかに時間を過ごし、明日の予定を
確認して別れた。明日はシャンティイ、ヴェルサイユへ行く。

翌日、環状線を走行して目的地までの過程をビデオカメラで撮影した。何の問題も
なく、その日の仕事は終わった。通訳をしてくれているピアニストの女性と、その
ボーイフレンド、そして私たち夫婦の4人で夕食をした。彼女のおすすめのレスト
ランは素敵な店だった。いろいろな話を聞き、そして話し、楽しい時間を過ごした。
この日は日曜日だった。

次の日はオフ。なぜなら、私の家内が仕事の都合で日本に帰らなくてはならない
からだ。     (続く)


思い出のシャルル・ド・ゴール空港2 [思い出・雑感]

翌日はロンドン市内を撮影した。カメラマンとは現地集合になっていて、
前日に打ち合わせをすましておいた。10月のはじめだったので、もう
ロンドンはけっこう寒くなっていた。その肌寒いロンドン市内を今は無き
2階建てロンドンバスの2階(屋根のない方です)から撮影した。撮影
そのものは難しいものではない。ひたすらクルマが行き交う街の中を
撮るだけのこと。スタッフも私たち二人とカメラマン、その助手の4人。
夕方に無事終了。

夜は大好きなオペラ座の怪人を全員で観に行った。私は基本的に劇場窓口で
買うことにしている。いい席があるかどうかは運次第だが、日本から予約
して行ってもそれは同じだし、何せ自分の都合のいい日時に行ける。今までに
5回ほどロンドンで見たが、うち1回だけJCBカードで予約したが、その
メリットは感じられなかった。この時は2階席だったが、その2年後にロン
ドンに行った際に取れた席は、正面前列から5列目ほどが取れた。何度か
行って、いろいろな席から観たが、それはそれで面白いものだ。

例えばオープニングのシャンデリアが上がっていくシーン、あるいは怪人が
ステージのセットの上から現れる時など、1階正面、2階右側、1階左奥など、
当たり前だが観る角度によって見えてくる世界が違う。これはこれで楽しい
ものだ。席によっては多少の死角も当然あるが、それもまた気にしない。

また、この劇場(ハーマジェスティックシアター)の雰囲気や、休憩時間の
バーの様子を心に刻むことも、私にとっては重要なことなのだ。バルコニーの
あるこぢんまりした劇場。その空間の中で演じられる英語圏の素晴らしい芸術に
触れる、その時間…。私にミュージカルの楽しさを教えてくれたK君に感謝。

(実はその時、家内は疲れて爆睡していた。ま、これもまたありということで…)

次の日はレンタカーを借りて、いよいよ環状線を通行しての撮影。ドライバーは
私だ。あらかじめ日本で国際免許を交付しておいてもらったのだ。運転には
それなりに自信があるし、イギリスは左側通行なので気が楽だと考えた。久々の
マニュアル車だったが、すこぶるスムーズに運転しながらの撮影となった。

行く先はロンドン万博の水晶宮で有名なパクストンの設計した温室があるキュー
ガーデンズだ。その後に映画、炎のランナーで主人公が母校の回廊を走るシーンが
撮影されたイートン校のあるウインザーに行く予定だった。そしてこれも無事
撮影終了。ロンドン分の撮影は終わった。

次の日はお休み。ということでロンドン市内を家内とぶらぶらして過ごした。
私はロンドンに行くと必ずハロッズのフードフロアに寄って、そこのオイスター
バーに入ることにしている。そして、大好きな牡蠣やサーモンをグラスワインと
楽しむことにしている。私はグルメでも何でもないので、確かなことはよく分から
ないが、ヨーロッパの牡蠣はおいしく感じる。(あくまでも個人的な感想です)
ヨードというのか、石灰分というのか、シングルモルトウイスキーを飲むとよく
感じる、独特のスモーキーさやフレーバーが舌に広がる。

サーモンも好感の持てる脂がのっていて、舌触りがいい。もちろんノルウェイ産の
おそらくいいサーモンなのだろうから当たり前なのかもしれない。それに、牡蠣に
してもサーモンにしてもランクがあるので、せっかくの機会にケチるのはいやなので
そこそこのランクのものを注文するからかもしれない。よく牡蠣にはシャブリ、と
言われるのだが、私はシャブリはどうも歯がきしきしするように思えるので、あまり
好きではない。むしろアルザスの白が好きなので、自分の好みに近い白ワインを
頼んでいる。

ロンドンに着いて5日目の明日はユーロスターでパリに移動。男文化の街、ロンドン
から、女文化の街パリへ。私はパリもかなり好きなのよ。どんだけー。  (続く)


思い出のシャルル・ド・ゴール空港1 [思い出・雑感]

今から数年前の10月に仕事でヨーロッパに出かけた。行き先はロンドンと
パリ、それからイタリアのフィレンツェ。

ロンドンとパリは、まさしく今風に言うのであれば道路特定財源をおそらくは
使っての仕事。当時のJHから依頼された仕事だった。

どんな仕事かと言えば、環状道路の(工事についての)理解促進を図る
もの。ところでみなさんが暮らしている地域には環状道路、と呼ばれる
ものはありますか?この環状道路というのは、実は大都会を抱えた地域に
多くつくられる。

なぜ、つくるか?それは都心を避けて目的地に行くことができるから。
つまり都心の交通ラッシュを減少させることができるわけだ。環状道路に
入り、そのままリング上の道路を通行して、向かうべく方角の角度になったら
こんどはその方向へ進む道路に入る。このサークルを大・中・小とつくって
いけば、スムーズに目的地に行ける、というわけである。

都心が混むことは当然のことなので、車の通行量が減ればそれ以上の
交通渋滞にはならない。また渋滞時の排出ガスを減らすことができる。
ま、そんなこんなで当時私の暮らす中部地区でも、JHでは環状道路を整備
しようとしていた。これは全く持ってごもっともであるからして、個人的
にも反対する由はない。

でもって、そういった環状道路の果たす役割は、ヨーロッパの都会を
例に出せば、一般の方々にも分かってもらえるのでは?…という狙いで環状
道路の映像をわれわれが撮影してくることになったわけだ。特にロンドンや
パリにある環状道路は大いに活用され、毎日の暮らしの中で重要な役割を
果たしているので、撮影するには絶好だろうと。そして撮影し編集された
映像は、JHのパビリオンで見てもらおう!と。


先ずは名古屋空港から成田空港へ。成田空港からANAでロンドンのヒースロー
空港に飛んだ。今回は私の家内もアシスタントで同行してもらった。なにせ、
しっかりしていて頼もしい。地図を見てのナビもうまい。映像プロダクションの
優秀なPMのように役に立つからだ。

ヒースローから電車に乗ってロンドン市内へ向かう。ふたりで重いスーツ
ケースを運んで、こうして遠く離れた国に来るといやが上にも結束が固くなる。
よし、がんばるぞ!みたいな気分になってくる。何だか江戸の敵をロンドンで!
みたいな不思議な高揚感…。って別に戦いに来たわけではないのに。

ロンドンの宿はホルボーン駅近くのボニントンホテル。ピカデリーサーカスにも
近くて立地はまぁまぁだ。毎度のことで予算は厳しいので当然、高級ホテル
ではない。その昔?バブル全盛の頃はみんな海外ロケにビジネスクラスで出かけ、
高級ホテルに滞在していた。私は当時マネージャー職だったので、そういった
ロケには部下が行っていた。いやはやニューオリンズだの、ロサンジェルスだの、
オーストラリアだの…。ジェットヘリで撮影して、ああしてこうして…。

チェックインしたのは午後6時くらいだったので、夕食に出かけることにした。
以前にも何度か行ったことがある不思議な回転寿司「YO-SUSHI」に行った。
ロックががんがんかかっていて、相変わらずだった。しかし行き着くまでには
何度か迷ってしまった。ロンドンにはそれまでにも7〜8回は来ているのに、
なぜか街の記憶は曖昧で、それなりにいつも迷ってしまう。明日からはいよいよ
仕事だ。    (続く)


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