昭和な私、偏狭な私。 [日本人]
なんだかんだですっかり更新をしていなかったこのブログ…、
まぁ、誰に強制されるわけでもないし、これからもぼちぼちと
書いていきます。
8月、9月と、まさしくかつて経験したことがないほどの業績不振!
なんて書くと大きな会社みたいですが、個人事務所です。いやはや
誰かが間違えて発音した「未曾有」です。いや〜、参ったなー…。
といったペシミスティックな話はさておき、今日はディズニーランド
のこと。あの施設は、一度行ったけど、どうにも性に合わなかった。
今後二度と行くことはないだろうが、なかなかに人気があるらしい。
好きな方にはたまらないのだろう。夢がいっぱいあるらしい。そういう
方から言わせれば、私は変人も変人、超変人になるに違いない。で、
特に何が好きではないか、というと例の着ぐるみが、どうにもだめ。
私世代の子ども時代は、あんな着ぐるみなんて見かけようものなら、
うしろから跳び蹴りをしたりして、(ごめんなさい)中に入っている
人物を激怒させていたものなのだ。かわいい?なんて思う感受性が
はなっから欠落している。
いつからか日本は「ゆるキャラ」という奇妙な着ぐるみがのさばり
始めて、ぬるーい空気を攪拌しながら歩くようになった。角の生えた
坊さんがいたりして、これは諸外国の人が見たらあきらかに悪魔だな。
幼児や婦女子がぬいぐるみや人形を可愛い、と思う気持ちは分かるよ。
それらには擬人化して遊戯を楽しむ、というごくごく成長過程におい
ては自然な行為の出演人物(動物)としての役割を感じることができ
るから。男の子が飛行機のおもちゃを持って「ぶ〜ん」とやるのと
同じだろう。
でもさ、着ぐるみって、中に入っているのはバイト代もらって働いて
いる方々でしょう。ミッキーでもグーフィーでも、ま、ドナルドは、
ちょっと好きだけどね…。
6歳頃のこと、雑誌に「ディズニーランド」という名前のものがあって、
ずいぶん欲しかった記憶がある。アニメのディズニー映画にもこころが
踊った。なんて可愛くてデザイン的に(子どもがこんな言葉で感じるわけ
ではないが…)垢抜けているのだろうと。おまけに書体もかっこよかった。
ある時、そんな私の前に着ぐるみが現れた。まぁ、そんなものはわれわれ
の絶好の攻撃対象だし、見るのも恥ずかしかったし、その動きもまるで
のろくて、どうにもいたたまれない気持ちになった。視界が狭いのだから
当たり前だけども。
よくできてはいても、それは好感が持てなかった。ある意味、夢を壊す
ものだった。すんごく感じたのは「ニセモノ感」。本や映画の中でこそ、
ふくらんだ想像力が、つまり無いはずのものだから楽しかった気分、が
目の前に現れることによってつまらなくなった。魔法から醒めたのだ。
明らかに、昭和の人間の感覚なのかなぁ。ウオルト・ディズニーさんが
望んだ世界観はこういうことだったのかなぁ?いつもその陰に見え隠れ
しているのが「お金」っぽい、不思議な感じ。そして、高い料金を払って、
入場できる人々や、その家族はある意味「幸せ」なのだろう。ああ、
とうとうディズニーランドに来られるようになった!ってね。
VIP用のパーティールームで金持ちの子どもたちや、その母親が集まっ
て誕生日会を催す。それが子どもたちに夢を与える素敵な施設なのだ。
偏狭な私は、いつしかお金で買えないものこそが、いちばん大切で、
それこそが夢を生む原動力になるものなんだ、と思い込んでいた。もう
いちど、ゆっくり考えてみなくてはならないようだ…。ね。
女性たちよ! [日本人]
乳がんや子宮頸がんなどの病気から、自らの身体を守るために
女性たちがさまざまな活動をしている。子宮頸がんなどはワクチン
投与を若い時から行えば、かなりの発症を抑えることができると
聞いている。
そんな女性たちには大いに共感を覚えるし、頑張って欲しい、と
思っている。
ところが同じ女性でも、40代の美乳、などということに興味が
あり、雑誌の特集を懸命に見ている方々もいるようだ。その頁には
惜しげもなくおっぱいを見せ、その美しさを披露している女性が
微笑んでいる。
しかし、これは改めて考えてみれば、あれほど女性たちが嫌って
いたはずの「女性の商品化」ではないのだろうか?所謂、ミスコン
に反対していた理由と同じ、女性の外見における格付けなのでは?
と、私は思ってしまう。
未婚の若い女性が、顔立ちやスタイルのことを気にするのは、ま、
言わば当然のことであって、やっぱり美人と呼ばれたいのは致し方
ないことだと思う。また、スタイルがいい、と言われたいのは誰しも
だろう。若いのだから外見に対する価値観が高いのだろう。
しかし、結婚もしており子どもまでいる女性が、まだおっぱいの形に、
というのはいささかがっかりである。女性の中には乳がんで乳房を
失った女性もいるだろう。あるいは自らが望むサイズとは異なるバスト
サイズの女性もいるだろう。
けれども、ある程度の年齢になりさえすれば、外から見えるもの、
(あるいは所有しているモノ)よりも大切なものがあることに気が
付いて、人間は成長していくのではないだろうか?
われわれ男性の中にも、大切な肉親や伴侶、恋人を女性特有の病気
から何とか守りたい、と考えている人々がきっと数多くいるはずだ。
自分にとってかけがいのない女性。その女性のおっぱいの形を
よくすることよりも、それは遙かに大切なことだ。
女性が自らの身体を守ることに積極的に取り組むことは、男性や社会
にとっても望ましいことだ。そんな女性たちがいるのに、40歳を
過ぎてからのおっぱいの形にこだわる女性がいる…。
ところで、その美しい形の乳房は、誰かに見せるためのもの?夫に?
それとも、鏡に映してうっとりする自分のため?
何気なくポータルサイトのバナーを見たら、女性雑誌の広告が目に
とまり、ついつい飛んでしまった…。美乳のみなさま、決して美乳が
嫌いなわけではありません。悪しからず。
しかし、誰に見せるのだろう…?(くどい!)
ラグビー大学選手権のこと [日本人]
私は、ラグビーが大好きである。そして今年は大学ラグビーの関東対抗戦
グループで帝京大学が初優勝した。これで俄然、大学選手権が面白くなった。
そして迎えた決勝戦。帝京大学は順調に勝ち進み、対抗戦で帝京大学に負け
た早稲田大学が決勝に勝ち上がった。
これは面白い!雪辱を期した早稲田大学と、初めての大学選手権日本一を
賭けた帝京大学のぶつかりあい。わくわくしながらテレビ画面を見ていた。
結果は10対20で早稲田大学が15回目の優勝。
ああ、なかなかいい試合だったなぁ、と思って、その試合の情報をネットで
調べていたら、どうも驚くべきことが試合中にあったことが話題になっていた。
元はレフェリングの話からなのだが、そこからある選手の反則行為が問題に
なっていた。その試合はHDDに録画してあったので、改めて見てみた。
問題のシーン、それは前半10分過ぎとのこと。もう一度見てみることにした。
すると…そこにははっきりと早稲田の9番が帝京の選手に思い切り膝蹴りを
入れた映像が残っていた!ええ!?嘘だろー?ラックになっているとき、
いったん下がってから、勢いを付けて右足の膝を曲げ明らかに膝蹴りの体勢
から相手選手の頭部に思い切り膝頭をぶつけた。
もんどり打って仰向けに倒れた帝京の選手。おそらく脳震盪を起こしたの
だろう。もうろうとした様子で立ち上がったがふらついている。私は、今まで
あんなにひどい反則を見たことがない。偶然かと思い、何度も見たがいくら
見直しても恣意的に見える。
優勝インタビューで早稲田大学の主将が「やばいっす」という若者言葉を
連発していたのは(これも帝京大学主将のコメントが大変に清々しく、記者
から拍手が沸いたということもあり、批判のやり玉に挙がっているが…)
ご愛敬だとしても、どうにもやりきれない嫌な後味が残った。
参考までに中継をしていたアナウンサーの方のブログです。
http://www3.tvk-yokohama.com/morita/2009/01/post_30.html
帝京大学も以前部員による不祥事があったし、関東学院大学でもこの前
不祥事が起きた。だから、そんなことを言うのはおかしい、似たようなもの
と割り切らなくてはいけないと発言している方も多くいるようだ。
ただ、少なくとも試合中に目の当たりにしたあの行為は、大きなショック
だった。さらに多くの人々がその試合に期待していたものはいったい何だ
ったのだろうか?と考えた時、それはどうしても似たようなもの、と私は
片付けることができないのだ。
ガッツポーズ問題から [日本人]
朝青龍さんのガッツポーズが問題になって、注意を受けたそうだ。
正直、あれ?まだそんなことを言ってるんだ…。って思った。
土俵上の振る舞いが悪いのは、何も今更に限ったことではない。
ずっと前からそうじゃないの、相撲協会さん。彼にしてみれば、
それこそ何を今更…、ってことでしょう。
でも、これって今の日本人の叱責に対する典型だとも思った。
何度注意されても、しばらくやり過ごせばまたぞろ「やっぱり
ヒール役の朝青龍がいた方が面白い」とか、「あれだけ休んでい
てもやっぱり強い」だの言われて、一件落着。
なーんだか、みなさんあれほど憤っていたのに、なにさ、また
戻ってきて、キッチリ賞金たんまり貰ってケロッとしてんじゃん。
今日辺りは、もうすっかり大麻吸引力士のことでガッツポーズは
どこかに消えてしまっているし…。え!?悪いのは朝青龍かい?
違うでしょ!相変わらず煮え切らないまま、彼をどう処遇していい
ものなのか分からない相撲協会でしょ。
例えは良くないが、躾の悪い犬に怒っても仕方がない。飼い主が
悪いんだ。おまけにそんなのを連れて散歩に出かけることを許す
誰かも悪い。と、私は思う。
なぜだろう?最近人気のあるスポーツ選手とか元スポーツ選手は、
私的には心の底からシンパシーを感じられない人が多い。某現役
メジャーリーガーも、某元サッカー選手も、某現役女子柔道選手も、
某現役女子フィギュアスケート選手も…。
誤解されるといけないのでお断りしておくと、それは「嫌い」なの
か?と、問われると「そうではない」。一体、何がどうして、そういう
気持ちになるのか?と考えてみると、スポーツをしていない時の
彼らが、私には好ましく感じられないのだ、という結論に至った。
これはおそらく、かつては私たちが知り得なかったスポーツ選手たち
の情報が、きっとさまざまなメディアから知る得ることができるよう
になったからなのだと思う。(中には自らの競技会場そのもので、露呈
してしまう人もいるが…)
こう考えると、なるほど、こりゃ純粋なヒーローが現れないわけだ。
と合点がいく。スポーツ観戦をする時には、あまりスポーツ選手の
個人的な情報は仕入れておかない方が感情移入できていいかも。
というわけで、スポーツ選手も今や役者のセンスが要求される時代に
なってきたのかな、と。朝青龍さんに欠けていたのは、その辺りなの
かもしれない。親方には、これから演技指導にも力を入れることを勧め
たい。(ああ、しょーもない締め…)
オバマ氏。臓器移植。署名活動。 [日本人]
アメリカの次期大統領がオバマ氏に決まった。で、以前から福井県の
小浜市が「勝手に」応援していたそうな。もちろん、理由は名前?が
同じであったから、応援したんだそうな。しかも前市長さんとやらも
随分ご執心で共和党のマケイン氏に勝った時にはえらく興奮していら
したそうな。
オバマ氏、当選決定後にはご丁寧に日本の総理大臣にも「小浜市のこと
は知っている」と答えたそうな。正直言って、私ゃ、そんなこと、どー
でもいいけどさ。へぇ、名前が同じだから応援するんだ…。しかも、
これから一国の政治を牽引していくという重責を担う方を…。その上、
少なからず、地方自治体の政治に取り組んでいた前市長さんまでもが…。
15歳以下の(子どもの)臓器移植についての是非を問うアンケート
結果が発表されていた。それについて私は特に主張があるわけでもない。
ただ、いつも思うことがある。それはよく行われる「募金活動」だ。
もちろん、例えば難病のお子さんを持つ親御さんに代わって有志たちが
寄付を募り、今は子どもの臓器移植が禁じられている日本からアメリカに渡り、
手術を行うことに協力したいと思う気持ち。それは尊いものだと思う。
けれども、それは等しく同じように難病に侵されたお子さんが得られる
福音ではない。それを思うと、私は募金に協力することに躊躇いを覚える。
また臓器提供者を待つある人は、脳死する人を待っている自分は、誰かの
死を願っているようで、嫌だった。と言っていた。翻って、先日名古屋で
若い女性が携帯の闇サイトで知り合った連中に殺された事件。被害者の
母親は、犯人たちを死刑にしたいということで署名運動を行った。これも
また私は複雑な気持ちになった。
犯人たちに厳罰を下すことは、当然のことだ。あるいは光母子殺害事件の
犯人のように悔悛の情さえ感じられない輩に対して、究極の刑を司法に
望むことは理解できる。しかし、死刑を望む署名活動にはどうしても
違和感が残る…。署名することは即ち「犯人を殺すことに賛成します」
という意思表示になる。
被害に遭われた方には心からご冥福をお祈りしたい。そしてもし、私が
被害者の親族であったら、もちろん死刑を望むことだろう。けれども、
署名活動はどうなのだろう?「殺してやりたいほど憎い」はわかる。
でもそれは「殺すこと(死刑)に賛成して欲しい」と、他の人々に訴える
ものではないような気がする。
日本人のストーリー [日本人]
子どもから青年になる頃にかけて、
粟津潔さんのポスター「海を返せ」を見て、メッセージを発信する
大切さを学んだ。
国鉄総裁だった石田禮助さんの「祖にして野だが非ではない」と
いう言葉を知り、生き方を顧みた。
バロン西の話を読んで、戦争とスポーツ、日本人と米国人の精神性の
違いを考えた。
清水善造さんのエピソード知って、フェアであることの美しさと
武士道に興味を持った。
杉原千畝さんのストーリーに、古き良き日本人としての誇りを感じ、
同時に今の日本人に失望した。
世界の人々が共感してくれるような、日本人のストーリーが、私は
もっともっと読みたい!知りたい!
どうしてだろうか、最近、よくそう思う。
間違っていないことは正しいことか? [日本人]
相変わらず偏屈なことばかり言って申し訳ないと思っている。思っているけど、書いてしまう…。
先日、クルマを運転していた時のできごとである。センターラインも、もちろんないような道路。いわゆる住宅街の中にある生活道路、である。名古屋人のモラルの低さは天下一品なので、やはりこういった道でさえも違法駐車のクルマがデーンと停められている。
そんな道であるからして(違法駐車のクルマによって)当然、対向車とすれ違うことさえもままならない。案の定、対向車がやってきた。さて、こういった時の判断力は、クルマを運転する者にとって非常に大切だと私は思っている。相手の出方を見て止まるのか、徐行するのか、瞬時に判断してできうる限りスムーズに通り抜ける。これ、これ。
違法駐車のクルマは確かに私の進行方向側に停められている。その(違法駐車の)クルマまでの距離はお互いほぼ同じ…。こういう時には、とりあえず相手の出方を見ることにしている。言っちゃなんだがへたくそなおばさんなんかだと、自分からは絶対に動かないと決めてそこから1ミリたりとも動かない人もいる。そういった時には私はミラーをたたんででも進む。もちろん、通れると判断した時に限ってだが…。自慢してしまうが、私は免許を取ってこのかた36年間無事故である。そしてペーパードライバーでもない。常にクルマに乗ってきた。バイトでトラックの運転手をしていたこともあった。あの、違反はしています。念のため…。
というわけで対向車のドライバーを見たら、自信のなさそうな初老の男性、クルマはクラウン…。
正直こういう方が苦手である。なぜなら、悪意が全くなくて、運転が下手だから。想像通りそのクラウンは停車してしまった。これだけあれば十分にすれ違うことができる、そう判断した私は躊躇せずクルマの鼻先を入れようとした。するとそのクラウンが突然動き始めた。しかもハンドルをこちら側に切ったので、通り抜けのスペースが削られてしまった。私はクルマの中で叫んだね。「なんだよー、どーしてそんなにへたくそなんだよ!」
その様子を見て、初老の男性は再びクルマを止めて、窓を下げた。当然、私も下げた。初老の男性はこう言った「私の方が優先でしょ、あなた側にクルマが止まっているのだから」然り。「徐行しようよ、狭い道なんだから」然り。私は答えに窮した。初老の男性はいい人そうであったし、彼の言いたいことはかなり理解できる。私はしどろもどろでこう言うのがせいいっぱいだった。「いや、だって、あなた、止まったでしょ、そしたらまた動き始めちゃうから…」うーん、困った。
彼の言うことは間違ってはいない。でも、私に言わせれば「でも…」、である。こういう時には、こうした方がいい、というようなことが世の中にはたくさんあるじゃないか!「機転を利かす」という言葉があるじゃないか!まぁ、あまり針小棒大になってしまうといけないので例え話はやめておくが…。(あー、すっごくしたい!いろーんな例え話…)
結局彼は通行できる部分を狭めておいて、こんどは動かなくなってしまったので、私がさらに左によってぎりぎりを通過して行った。腹は立たなかった、いい人だったし。決して嫌な人ではないと思えた。(彼は私のことが嫌いだろうが)ただ、ああいう人とは絶対にいっしょに行動はしたくないね。合わないよー、ああいう人は! 以上。
危険、ですか!? [日本人]
かなりの期間、全く更新しないこのブログを自分自身で時々のぞき見て驚いていたことがあった。それは閲覧してくれている人が毎日必ず数十人いる、ということだ。ソネットのカウントの仕方が私にはよく分からないので、果たして読んでくれていたのか、あるいは偶然アクセスしてしまっただけなのか、そのあたりはもちろん藪の中である。そんなことを思っていたら、久しぶりに書いてみようか、という気持ちになった。まぁ、我ながら勝手な理由だとは思うが、お久しぶりです、みなさま。ちょっと書いてみたいこともあったので、3ヶ月ぶりに更新します。
実は、前々から気になっていたことがあって、そういうものなのだろうか…、と思っていたところに、ある出来事が起きて自分がその張本人になった(された)というお話である。
それは「危険」と呼ばれること(もの)の本質。何だかもったいぶった始まりで恐縮だが、先日、経験をしたこんなできごとから、よりいっそう考えることが多くなったのだ。
8月に友人の家族たちと川遊びをするために足助という山の中にある町に行った。そこには鮎も釣れる巴川という川が流れていて、夏になると多くの人が川遊びをしにくるところだ。その帰りに今度はもっと山の方へ行ってバンガローで1泊してBBQをするという段取りになっていた。毎年そこに行って小さな子供は川につかって水遊びをしたり、われわれ大人は釣りをしたりして時間を過ごす。もちろん、釣りは禁止もされていないし、川に入って(つかって)いる人がいる場所では釣りをすることはない。というより、去年まではそれほど数多くの家族連れや友人連れをここで見かけることはなかったので、何の問題もなく川縁の時間を過ごしていた。
ところが今年はとても人が多く、日曜日だったこともあって混んでいた。こういうときの若者や今どきのファミリーの傍若無人さは目に余るものがあるが、私にも免疫が出来ているので自分たちのスタイルで川遊びを楽しむことにして無視していた。実際、どう考えても人数よりも過剰に大きなビニールシートを敷いて通行の妨げになっている。あるいは所かまわずBBQを始めているグループ、数知れずといった状態だった。推測するにおそらくネット上でこのポイントが流布されたのだろう。だからこのような状態になった…。それは仕方のないことだ。
とはいえ、川で遊んだことがある方ならおわかりだろうが、川は流れが速いところや深いところがけっこうあって、実際には「泳ぐ」という行為はほとんどしない。浅瀬で水遊びをしたり、流れに注意しながら水につかるものだ。まぁ、よほど泳ぎに自信がある人や、危険を顧みない蛮勇をお持ちの方はその限りではないが…。
そんな場所で、いかにも急流で水深も深そうということで、誰もいないスペースを見つけた。早速、金680円也で買ってきた釣り竿を出して釣りを始めた。周りにいた人も「釣れますか?」などと興味津々で話しかけてくるお父さんと子供とか、言うなれば川に入って遊ぶ人と、川で釣りをして遊ぶ人が、当然だが共存してお互いにマナーを守ってスペースを配分していたわけだ。
餌は今日のBBQ用に買ってきたハムを小さくちぎったものだ。こんな仕掛けでも白ハエあたりだとそれなりに釣れる。釣った白ハエは、毎年だがBBQの時に焼いて食べる。うちの奥さんは苦いのが好きらしくて喜んで食べてくれる。
するとしばらくして、主婦らしき女性がこちらにやってきて文句を言い出した。風体などの描写をすると恣意的になるのであえてやめておくが、まぁ、強烈に信じているものがあるという雰囲気。
文句の内容は「ここであなた方が釣りをすることは危険である」「あなた方がここで釣りをしているから子供たちは(ここで)川に入って遊べない」「まわりの人間も困っている」というようなことだった。私は、危険だとは思わない、という旨を伝えた。何をして「危険」というのかが理解できなかったからである。何でもかんでも自分が「危険」と決めつけたものは排除する、あるいは糾弾するのは間違っていると私は思う。であれば、かなりの高さがある吊り橋の上から川に飛び込む若者は、私から言わせればあきらかに「危険」である。川にいる人にぶつかってしまう可能性のある愚かな行為には目をつぶり、本来誰のものでもないスペースを、自分たちが優先であるという理屈が愚かだと思う。
マナー、という言葉がある。例えば、その主婦が何故、川に入る人が誰もそこにいなかったか、という理由を勘違い(流れが速くて危なそうだからいなかった)して、私たちが釣りをしていたからだと思ったとしても、ものには言い方というものがある。マナーをわきまえているのであれば「ここで遊ばせてもいいですか?」と尋ねるべきではないだろうか?あまりこういう表現は使いたくはないが「優先権みたいなもの」が、本当は微妙に存在するものが世の中だと思う。しかも、それは当然だ。朝早く来た人はそれなりに自由に自分たちがくつろぐ場所を選ぶことが出来る。私たちが釣りをしていた場所が、明らかに私たちにその微妙な「優先権みたいなもの」があった、とは言わない。先ほども書いたように、その川は私たちのものではないからだ。そしてそれは、その主婦や主婦の家族のものでも(当たり前だが)ない、ということでもある。
彼女は何度となく「危険」という言葉を用いた。その周りにいる、化粧の濃い女性の集団も同じように主婦の意見を支持して「危ない、危ない」と同調していた。私は反論をやめて釣り竿をたたんだ。ここで見えてくるのはこういった理屈だ。つまり、自分の子供が歩く道を「危険」な自動車が通行することはまかりならん!あるいは、公園でけがをするのは「危険」な遊具をきちんと管理していないからだ。
いつからそんな風になったのかは分からない。しかし、そのことから私は、以前アメリカで濡れた猫を乾かそうとして電子レンジに入れたら死んでしまったから慰謝料を払え、という裁判のことを思い出した。(原告勝訴)けれども、それは電子レンジが「危険」なのではなくて、電子レンジをつくったメーカーが悪い、あるいはその使用説明書が不備だと平気で言えるものの見方の方が、はるかに「危険」なのだ。(と思う)
ものの道理とか、良識とか、謙譲とか、自省とか…、全く感じられないことの方が私は恐怖である。残念ながら、おそらくこのような私の考え方も、その主婦から見ればきわめて「危険!」なのであろうが…。
夢と愛 [日本人]
「夢」そして「愛」。どちらの言葉が好きですか?私は「愛」です。…何だかいつもと違う微妙なイントロ。いえ、実はこの話を今度学生にしてみようかな、と考えているのです。私は正直言ってこの年齢になったからかもしれないけれど、「夢」という言葉にあまり魅力を感じないのです。
「夢」という言葉はあまりに茫洋としていて、捕らえどころがなさすぎます。睡眠中に見るあれ、人間のどのようなメカニズムが目を閉じているのに、いかにも目を開いているような映像を脳に送るのか、私には到底理解不能なあれ。あれこそが「夢」の本質的な正体であるように私には思えます。
一般的に「夢」を持とうよ!といった場合に使われるのは「目標」、という言葉の方がずうっとふさわしいんでないの…?とへそ曲がりの私は思ってしまうわけです。ミュージシャンになるのが夢です、という学生がいたら「それは目標なんでないの?」とまぜっかえしてしまう私がいます。宇宙飛行士であっても、大金持ちであっても、私にはみーんな目標でしょ、それって?となってしまう…。ああ、なんて「夢」のない私。
では、難易度の高い目標が「夢」になるんでないかい、と自問自答を試みる。うーん、これとてやはり、難易度の高い目標そのものだなぁ…。例えばビル・ゲイツのようになりたい!あるいはスティーブ・ジョブスのようになりたい!と願うのも、目標。となると、私的に「夢」を定義するとなると、前例がないことをすること(目標とすること)こそが「夢」になる可能性を秘めていることになるんだー、という結論に達してしまいます。
これから先は、かなり曖昧な私の「夢論」になります。では、大リーグに挑戦して初めてメジャーのマウンドに上がった村上さん(野茂選手の前)は「夢」を叶えたことになるのかな?うーん、きわめて難しいですよね。実力のあるスポーツ選手が、レベルの高い場所に向かうのは「夢」に近いけれど、やはり目標のような気がします。はてさて、こうして整理してくると、ある疑問が浮かんできます。それは「壁」あるいは「障害」と呼ばれる「困難」を克服することが「夢」になるのかな?っていうことです。日本からアメリカへ行くことが大変であった時代には、実力を発揮することよりもそこへ行き着くことが壁になっていた、と考えれば先ほどの難易度の高い目標…?
ごめんなさい、ずいぶんと長い前振りになりました。今回言いたいな、と思ったのは、何でもかんでも「夢」のために頑張るよ!という表現で、実現できなかった時への言い訳にしてしまう傾向(だって「夢」なんだから)が最近、目に付くような気がしているからなんです。それも「夢」なんて大げさな言葉にすることさえ疑問に思えるようなことを言う人が多くて…。それに「夢」と「奇跡」の違い…。
タイムマシンをつくるのはきっと「夢」です。透明人間になるのも「夢」。運動能力が限りなくゼロに近い人がオリンピックで金メダルを獲得するのは「奇跡」。ただし、絶対に叶わないそれは、ある意味「夢」の概念にはかなり近いような気がします。若い人たちが口にする「夢」の正体。それが目標や志を半ば諦めていることを納得させるための便利な「詭弁」にならないように…。うまくまとめることが出来ませんでしたが、少しでもニュアンスが伝われば幸いです。
「愛」(ちょっと恥ずかしいかも)は、次回に。
WBCで思い出した好きな言葉 [日本人]
大好きな言葉がある。それは(誰でも知っている言葉だとは思うが…)「粗にして野だが卑ではない」という、あの有名な言葉である。もちろん、これはその昔の国鉄総裁であった石田禮助の言葉だ。国鉄の総裁になって国会に呼ばれた時に彼が自己紹介を行った。そのときに言った言葉が「粗にして野だが卑ではないつもり」だ。石田は生存中に勲一等叙勲を断り、さらに死後にも同じく勲一等叙勲の申し出があったが、遺族が固辞した。
新渡戸稲造の「武士道」や「硫黄島に死す」の西中佐の話を思い出して、いつも感じることは、日本人のメンタリティーの変化だ。と言って、何も私は右寄りでも何でもない。WBCの報道を見ていて、やたらとイチローのことを武士、と表現しているのが気になったからだ。そもそも日本人とはそういう生き方を善しとする民族ではなかったのか…。いつしか失われていってしまった、日本人としての振るまい方、言い換えるのであれば謙譲を旨として、高い志を持ち、品性正しき生き方を全うする、それを忘れてしまっている人々があまりに多いから、イチローが妙に今回、日本人として以前はごくごく当たり前とされた「気概」を持った日本人に見えた。
『今後、30年くらいは…』と言った彼の発言を挑発と受けとめた韓国。スポーツは美しいものかも知れないけれど、愚かしい戦争を繰り返させないために、国と国とが合法的に戦う場を設けることによって、ナショナリズムを高揚させることは、ある意味必然であると思う。イチローの発言はそういった一面を表現したものだ。つまり許される「粗」である。これから戦いの場に向かう者が発言した言葉として、洗練はされていないが「意気込み」を語るには、その荒々しさが、私には清々しい。
また、再び、韓国に敗れた時に『野球人生で最も屈辱的…』と発言した彼の気持ちも十分に理解できる。ストレートに、人間の持つ野生を生かすスポーツというジャンルに於いて「野」な発言をすることにも何ら問題はない。最も大切なことは「卑に非ず」ということだ。少なくとも彼は、そして、彼らは卑しくはなかった。与えられたチャンスを生かすべく懸命に戦い、素晴らしい結果を手に入れた。それを非難したり皮肉混じりに揶揄する、かの国のメディアには失望を禁じ得ない。準決勝まで進んだことによって兵役免除になった、と言う事実は結局「日本に勝った」から与えられた褒美であるとしか解釈はできない。世界一になってもいないのに、早々とそれが通達されたことに首をかしげる人は多い。どれほどの時間が流れても、彼らにはあくまでも日本は永遠に「敵」でしかないのであろう…。その敵に勝ったから、兵役免除なのだ。これは、悲しいことだ。
今時流行らない…。そんな言葉が聞こえてきそうだが、野球だけではなく、日本人としての誇りとは何か、をもういちど考えてみよう。江戸時代、ヨーロッパの絵描きたちは日本の絵画を見て感動し影響を受けた。明治維新直後、咸臨丸に乗ってアメリカに行った勝海舟たちは、あっという間に船の操舵(航海術)をマスターしてしまい、アメリカ人をびっくりさせた。そして、あれほどの甚大な被害を受けながら戦後、奇跡的な復興を果たした国、それが私たちの国だ。