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若い頃の話 [思い出・雑感]

70年。それは私にとってずいぶん特別な年だったような気がする。

高校に入って、その学校のレベルの低さに嫌になり、あっという間にドロップアウトした。
学校には昼までしか居ない。しかも授業はすべて睡眠に当てた…。

昼からはロック喫茶で夕方まで過ごす。「不条理」「形而上」こんな言葉で自分の怠慢を
なんとか誤魔化そうとしていた。

新聞部だった私は先輩に誘われてデモ行進に連れて行かれた。ちょうど70年安保がどうなるか
というような時期だった。後に10年おきの契約は自動継続に変わるのだが、70年はまだ形式は
協議して契約することになっていたのだと思う。

その「日米安保条約」に反対するというのが、デモ行進で訴えるべき内容だった。

集合場所は「白川公園」。そこにはいろんなセクトの学生たちが集まっていた。(つづく)


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もんちゃん [思い出・雑感]

もう10年ほども前のことだ。このソネブロを通じてできた不思議なコミュニティがあった。

私以外はおそらく全員が女性だった。ひとりは東京。ひとりはドイツ。そしてもうひとりは
オーストラリアに暮らしていた。もちろん全員日本人ではあるが。(その後、アメリカに住
んでいた方ともつながったが)

そしてそこには魔法のような友情があった…。お互い、会ったこともないのに東京在住の方の
ブログのコメント欄にオープンした「もん○○バー」の透明なカウンターに集い、あれやこれや
とよもやま話をしては帰って行った。あたかも昔からの友人のように…。

やがて私は折からの不況、デフレスパイラルに巻き込まれ食い扶持さえままならない状況に
追い込まれブログを更新しなくなった。

けれども人生のあるひととき、そこで交わした友情は今でも私のこころの中に深く刻まれている。

振り返れば夢の中でのできごとのような気もする。けれども私は、明らかにそこでふれ合った人
たちの幸せをいつもいつも願っていた。

どうか、みなさんがハッピーでありますように!そしてあの時伝えていなかったお礼を、改めて
ここで伝えておきたいと思っている。

「みなさん、ありがとう」「もんちゃん、ありがとう」



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従兄弟のお葬式 [思い出・雑感]

まぁ、しごくあたりまえのことではあるけれど、すっかり街の

景観が変わってしまったことに驚いた。

 

それは今から50年近くも前のことだ。私が小学5年生の時に、

大学生の従兄弟が死んでしまった。その従兄弟は「民茂さん」と

いう名前だった。

 

ちょうどその頃、民茂さんのお父さんも痛風で入院していて、

民茂さんは自分もかなりお腹が痛かったのに、言い出せなかった

らしい。腹膜炎をこじらせてあっけなく死んでしまった。

 

民茂さんは、私の母親が入院している時に、私が落ち込んでいる

と思い、映画に連れて行ってくれた。私が落ち着きがないので

大層恥ずかしかった、と後で母親にこぼしていたらしい。

 

その時に見た映画は忘れもしない大映の「眠狂四郎魔生剣」と、

「悪名シリーズ」(題名は失念した)だった。確かに今から思えば

市川雷蔵も、勝新太郎も、田宮次郎も、かっこよかった。いや、

あくまでも、それは今振り返って改めて考えてみれば、ということ

でだ…。

 

さすがに小学4年生の私には、それらの映画は踏み入れてはいけない

世界の匂いがした。眠狂四郎の1シーンでは裸の女性がこちらに

お尻を向けて横たわっていた。ざわざわした気持ちが湧いてきて、

きっとそういうものに、いつか私は興味津々になって、のめり込んで

いくようなことを予想して、何とか回避しようとした。

 

女の人の匂いが、女の人のからだが、女の人の声が、やがて私は

大好きになるのだろう、という妙にはっきりした自覚が生じた。

 

私は大人しく席に座っていることができず、ふらふらと映画館内を

歩いた(らしい)。それが、民茂さんには恥ずかしかった、という

ことだ。

 

そんな出来事から少し経ち私の母親は退院した。しばらくしたら

訃報が届いた。あの、はにかんだような笑顔で、小学生の私には

かなり強烈な映画を見せてくれた民茂さんは、消えてしまったのだ。

 

お葬式で、私は民茂さんの妹の「時子さん」に酷いことを言ってしま

った。「ねぇ、兄妹が亡くなるって、すごく悲しいの?」と…。

私はあんなことを聞いてしまった自分を、今でも悔やんでいる。

 

とても意地の悪い、ひねくれた子どもだった私は、自分の家庭とは

違い、私立の中学から進学していくそこの従兄弟たち3人が、おそ

らく羨ましかったのだろう。そんな屈折した気持ちもあったのだろう、

酷いことを言ってしまった。

 

ごめんね時ちゃん。あれから私は40数年経った今でも、そのことを

気にしているんだ。

 

名古屋の繁華街に民茂さんの家はあった。最近用事があってその辺りを

本当に久しぶりに歩いた。少し回り道をして、かつて民茂さんの家が

あった場所へ行ってみた。そこはコインパーキングになっていた。

 

またあの時のお葬式のことを思い出した。階段を上ったところに、民茂

さんの部屋があって、そこには年上のお兄さんの独特の大人びた世界が

広がっていた。置いてある本も、掛けてある服も、聞いているレコードも、

みんな垢抜けて見えた。

 

街はすっかり変わってしまった。私もいつかすべての思い出を無くして

しまうのだろうな、と思った。


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アジア大会 [思い出・雑感]

アジア大会。子どもの頃は、ほとんどの種目で日本が金メダルを

取っていて、日本のためにこの大会は開催されているのだろうか?

などという気持ちでいつも見ていた。

 

陸上も水泳も体操も…。すべての種目で、基本的にすべて金メダルは

競技を始める前から、日本にほぼ決まっていた。それが…。いつしか

日本の定位置だった金メダル獲得数ナンバー1は、中国になっていた。

 

今でも陸上競技で、沢木啓介選手が走っているシーンは記憶に残って

いるし、何だかどの競技もダントツに日本、という印象だったのに…。

 

こういうことが時代の趨勢というやつなのだろう。傲る平家は久しか

らずや…。行く川の流れは絶えずして…。まぁ、時代は変わるわけだ、

それはボブ・ディランの歌のように。

 

それらを受け入れることを拒否すれば、今のこの時代には生きていけ

ない。挨拶もしない。マナーも守らない。尊ぶこともしない。もちろん

謙譲なんて言葉は死語だ。

 

私は、実はそういう変わってしまった時代に適応できない自分が、ひどく

情けなく、故に、悲しい。これから、もうきっと私が思う、否、願う

日本人像は生まれてこないのだろう、と諦観している。

 

それはまさしく、ものの見方や感じ方、倫理観をも含めた私が望む日本、

そして日本人が、既に限りなく少数派としてしか認められなくなった、

という証に過ぎない。

 

アジア大会の話を持ち出したことは、つまり中国という国のものの見方を

受け入れること、それが即ち日本人のアイデンティティ喪失と無関係では

ないように思ったからだ。そしてそれが否応なしにスタンダードになる。

 

怒りは捨てたし、達観も訪れない。時の流れを傍観するだけにしよう。


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月が教えてくれたもの [思い出・雑感]

夜空を見上げれば(天気さえ良ければ)必ず月がある。満ち欠けを繰り

返しながら月はいつだって頭上に輝く。物心ついた頃から月は私の傍に

あった。

 

木造アパート2階にあった窓の縁に腰掛けて見上げた月は、今も変わら

ない。月を見て、人をうらやみ、肉親を恨み、自分を卑下した。睡魔が

やってくるまで月は私の心との会話に時間を割いてくれた。

 

「上を向いて歩こう」という歌が大ヒットした時、私は小学生だった。

けれど、歌詞の意味がなんだかとてもよく分かった。乾いた布に水が

染みこんでいくように…。そうか、上を向けば涙はこぼれないんだと。

 

あれからかなりの歳月が流れた。相変わらず、私は月を愛している。

つい先日も、飲んで夜道を歩きながらふと空を見上げた。そこには

見事な半月が浮かんでいた。ああ、きれいだなぁ、と思った。

 

肉親との縁が薄かったから、ひとりは平気だった。むしろ、ひとりの

方がずっと居心地が良かった。ひとりで本を読み、ひとりでテレビを

見て、ひとりでラジオを聞く。そして、いろいろなことを夢想した。

(夢精じゃないよ)

 

そんな私に、月はふさわしいような気がした。いくら見ていても見飽き

ない。そんな魅力が月にはあった。私はどうしてこれほど月が好きなの

だろうか?

 

若い頃、ずいぶんと悲しい思いをしたことがあった。それは、自分が

どう抗おうとしても、その濁流に呑み込まれてしまうしかなかったこと。

「諦めなさい…」その時の私に、月はぽつりと呟いた。


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関さんのこと [思い出・雑感]

関さんは、元活動家だってみんなが言っていた。それでも私が知っている

関さんは、いつものように仕事が終わると酒屋に直行してウイスキーと

ビールを、まるでカフェ・オレのように半々で入れる飲み物を笑顔で

飲んでいる人の好い、ただのおじさんだった。

 

関さんは、歯医者に行くのが嫌いなのと面倒なのが重なって、ずいぶんと

歯がなくなっていた。緑色の作業服を着てディーゼルのワンボックスを

運転して、全ての荷物の集荷が終わるとそれ、関さんは「爆弾」って呼ん

でいた、その酒を事務所で飲みながら、歯のない口で笑っていた。

 

訛りがきつくて、時々何を言っているのか分からなかったけど、関さんは

私のお気に入りの人だった。バイトで始めた荷物の配達や集荷をする

運転手の仕事。そのバイト先に関さんはいた。

 

当時、私は何になりたいのかも分からず、母親が倒れたのでてっとり早く

免許さえあればできるそのバイトを探してきた。朝の5時頃起きて、6時半

頃に作業場に行き、各方面から届いた荷物を仕分けして、仕事が始まる前

のオフィスにそれらを届ける。昼は「宅急便」という奴を各家庭に届ける。

夕方からは各オフィスからの荷物を集めて来て、宛先別に仕分けして帰る。

それがほぼ8時半頃。メシを食って風呂に入ったら、そのまま疲れて寝て

しまう。そんな毎日を2年くらい過ごした。

 

お昼頃に、オフィス街にある公園の横の道を通ると、よく関さんの車が

停まっていた。助手席側の窓に足の先を出して、そこで関さんは寝ていた。

事務所に帰って「関さんの車、見ましたよ」と言うと「おお、そうか」と

ちょっと照れくさそうに答えた。

 

事務所は相当に古い木造の建物だったが、関さんはそこの2階に住んで

いた。年齢は50歳くらいだったのだろうか?いや、本当はもっと若かった

のかも知れない。過去のことは一切話さなかったし、家族の話も聞いたこと

がなかった。

 

運転手の仲間は、関さんは実はすごく喧嘩が強くていくつもの武勇伝が

あるとか、最初に書いたように、以前は政治的な思想を持って活動して

いたんだ、と私に話してくれたが、半信半疑だった。だって、関さんは

いつもニコニコしていて、怒るようなこともなかったし、感情を爆発させ

るようなタイプには見えなかったから。

 

いちどだけ意を決して関さんに聞いたことがある。そしたら関さんは「そん

なわけないだろうがー」って、笑いながら「爆弾」を飲み干した。関さんに

言わせると、いちばん早く酔っぱらうにはこれが最高だそうで、それも

立て続けに何杯も飲んだ。

 

1980年、私は今で言うフリーター。進む道さえ見つけられず、何の目標も

ない毎日を送っていた。


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キャンプ [思い出・雑感]

中学の頃、友人に誘われてキャンプに行った。と言っても今から

40年以上も前のことなので、コールマン、とか、ドームテント

とか、所謂アウトドアスポーツ、なーんてかっこいいものでは全く

ない!山へ行って平屋の家(バンガローなんて代物では全くない!)

に、泊まる。そんな感じのキャンプ。

 

その家(山小屋)は、三重県の石水渓という場所にあった。友人は

以前のブログ(http://moriken-life.blog.so-net.ne.jp/2008-09-16)

にも登場したFだ。そのFがある日、別荘にキャンプに行かないか、

と声をかけてきた。

 

まぁ、Fも私もどこから見ても「ザ・ど庶民」なので、そのキャンプ、

あるいは別荘、という言葉を発音するだけで、何だか金持ちっぽく

聞こえて、えらくご満悦になった。「行く!行く!」ピンク映画の

主演女優のように私は絶叫…。

 

もちろんふたりだけではいくら何でも危ない、ということで近所に

下宿していた大学生のお兄ちゃんに、一緒に行って欲しいと頼んだら、

あっさりOKしてくれた。そのお兄ちゃんは前にもそこにFと行った

ことがあったそうで、Fの家族ともそれなりに懇意だったらしい。

 

いよいよ山へ行く日が来た。米だのニンジンだの、その日の夜に

食べるカレーの材料とか、諸々を持って出発した。名古屋駅までは

バスで行き、そこから国鉄関西線で亀山駅まで行った。今ではすっかり

見かけなくなった蒸気機関車はまだまだ現役でC61だったか、

まさしくそれに乗って亀山まで行き、意気揚々と下車した。

 

亀山駅からは歩きだ。昨今は家電量販店などでは「世界の亀山モデル」

などと謳って液晶テレビを販売しているが、当時はローソクの町、

亀山だ。でっかいリュックを背負って、みんなで歩き始めた。歩いた…。

しかし、歩けども、歩けども、ちっとも着かない…。車もぜーんぜん

走っていない。

 

こりゃ、けっこう大変だなぁ…。そうは思ったが、やはりやがて

到着するであろう「別荘」に胸をときめかしていた。想像では高床に

なっているログハウス。周りには白樺林…。近所にも同じような

別荘があり、都会の喧噪を避けてやってきた本物の金持ちが家族で

静養に。しかも、なぜかその家族には私たちと似たような年頃の

娘さんがいる!また、むちゃくちゃ垢抜けていて可愛い!!

 

期待と妄想で頭の中をパンパンにしながら、やっとの思いでたどり

着いたF言うところの「別荘」は、ただのぼろい日本家屋だった。

周りは森。ちなみに白樺ではなかった。あえて言うまでもないだろうが

電気もない。水は山からの水を貯水槽に貯めてあるものを使う。

 

季節は晩秋だったと思う。明るいうちに火を起こして米を炊き、

大きめの鍋でカレーをみんなでつくった。味は正直、おいしいとは

感じなかった。それでも、薪で風呂を沸かし布団に入る時には

妙にうれしいような高揚した気分が残っていた。

 

石油ランプを頭の方に置き、布団に入ると大学生のお兄ちゃんが

話をし始めた。目をらんらんと輝かせながら私とFはその話を聞いた。

 

翌朝、私とFは、どうしたら赤ちゃんができるかということを知り、

少し大人になったような気分に浸っていた。きっと、このことは

同級生の連中は知らないに違いない!ふふふふふ。子どもたちめ。

 

私が早熟であったのは、このような経緯が影響しているのかも知れ

ない


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浅川マキさん [思い出・雑感]

浅川マキさんが亡くなった。実は、その亡くなった日、つまりコンサート

会場に姿を現さなかったあの時、私はコンサート会場のライブハウスに

いたのだ。定刻になってもやって来ない浅川さんを心配して、ライブ

ハウスの人がホテルに連絡を入れた。しばらくして、店の人は浅川さんは

バスルームに倒れていて、今、救急車で搬送されました、と教えてくれた。

 

ただ、まさか亡くなっているとは思いもしなかった。お酒でも飲み過ぎて

倒れたんだろう、くらいに思っていた。その店で偶然テーブルが一緒になった

ゲイの圭ちゃん(洒落じゃないっす)たちと盛り上がっていた。

 

あれからどうなったんだろうな、と思っていた翌日の午後、圭ちゃんが訃報を

伝えてくれた。浅川マキさんはあの時、既に亡くなっていたのだ。

 

思い返せば、私が高校3年の頃、浅川マキをしょっちゅう聴いた。それは

ロック喫茶でバイトをしていて、お客さんからよくリクエストされたからだ。

特に女性客に人気があった。そしてもちろん、私自身もあのかすれた独特の

ムードを持った彼女の歌声に魅了された。

 

高校を出てからしばらく東京にいた。その頃、浅川マキさんは、確か南浦和

かどこか、その辺りのライブハウスによく出演していたように覚えている。

しかし、当時は当たり前だが、まったくお金もなく、それこそ行きたい気持

ちはあっても、行けなかった。

 

「夜が明けたら」「かもめ」「ちっちゃな時から」などが聴きたくなって、

昔持っていたアナログ盤(浅川マキの世界Ⅰ)を最近オークションで手に入れ、

さて、コンサートがあったら聴きに行こう、と思っていた矢先、名古屋で

ライブがあることを知り、チケットを申し込んだのだ。

 

私は結局、浅川マキさんのライブをこの目で見ることはできなかった。

 

ご冥福をお祈りします。加藤和彦さんに続いて、実はショックでした。


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新聞配達 [思い出・雑感]

中学生3年生から高校1年生にかけて、約2年間ほど新聞配達を

していた。と言っても、その頃から朝が苦手だったので、夕刊

だけだ。それでも200部近くを配っていただろうか。新聞店の

古い自転車にまたがって新聞を配ることはそれほど苦痛ではなかった。

 

新聞配達をしていた理由は簡単で、お小遣いが欲しかったからだ。

なぜだか、母親にはあまり小遣いをくれ、といった記憶が無いので、

私はあまりものを欲しがらなかったのだと思う。

 

ただ、中学生くらいになると音楽に目覚めて、レコードを買うお金が

欲しくなった。それとステレオが欲しくなった。コンポーネント・

ステレオ、という奴だ。だから、私が物欲を覚えるようになったのは、

やはり音楽がきっかけだったのだ。

 

最初は友だちの家で聞いていた音楽が、家でも聴きたくなってきた。

当時、姉貴がいた同級生はことごとくビートルズのシングル盤が

あった。それを電蓄で聴いていた。また、親がクラシックを聴くよう

な金持ちの友だちの家には、家具みたいなステレオが置いてあった。

 

と言っても、聴こうにも当然、その家にあるレコード(あるいはフォノ

シート)は、ほとんど聴いてしまっているので、何度も行っている

うちに自分の好きな曲を聴きたくなってくる。そこで、シングル盤を

買おう!と決めてレコード屋に行くわけである。

 

いや、そのうれしいこと。その頃はシングル盤が330円とか370円

だったと思うが、レコード店のビニール袋に自分の買ったシングル盤を

入れて、持ち帰る時の高揚感といったら!そしてそのレコードを持参して

友だちの家に行く。まぁ、レコードを貸すというより、掛けてもらいに

行く、というのが正解だろうが…。

 

どういう訳だか、若い時は2〜3回も聴いてしまうと歌詞を覚えて

しまい、何だか食べ物の消化みたいに、あっ、という間にその曲を

消化してしまうような感じになる。もう、頭の中のスポンジが歌詞は

もちろん、どんどんメロディーとか、テンポとかも吸い込んでしまう。

 

こうなると、もうレコードがもっともっと欲しくなってきて…。バイト

である。初めて買った再生機はモノラルの電蓄だった。自分でレコード

盤の端っこにトーンアームを持って行って落とす。いかにも軽く、安っ

ぽくてプラスティッキーなクリーム色のトーンアーム。その先からは

まだ見たこともないかっこいい異国の文化が溢れだしてきた。

 

加山雄三の「青い星屑」。おそらくこのレコードが初めて買ったレコード

だったと思う。それから雑誌で通信販売しているフォノシートが安かった

ので、ベンチャーズとかも買った。当時の所謂ポピュラー、と呼ばれて

いた洋楽が好きになり、ラジオも必死で聴くようになった。そして、高校

1年生の時に名古屋駅のあるビルで開催されていた「東芝EMIフィルム

コンサート」というイベントに、ふらっ、と入ってビートルズやCCR

(偶然)見た。そして私は完全にノックアウトされた。

 

新聞配達をしながら、次はどんなレコードを買おうか、と考えていた。

雨が降るとゴム引きのカッパが無茶苦茶臭かったし、ぐれていた同級生が

私の自転車を見かけると必ず蹴飛ばすので、近くの団地の配達から戻って

くるとよく自転車が倒れていた。でも、毎月数千円のバイト代。封筒に

入ったそのお金を数える時、いつも飛び上がりたいほど、私はうれしかった。


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旅行 [思い出・雑感]

旅行という言葉に、私はある種の羨望感や諦観の思いがあった。なぜなら、

私は子どもの頃、ほとんどそういった経験をしたことがないからだ。

 

私が高校生になって、ヒッチハイクなどで京都や東京に行くように

なるまで、私にとって小中学校の行事として出かける修学旅行など以外の

旅行は、たった2回だった。

 

ひとつは母親が働いていた会社の慰安旅行で出かけた京都への日帰りバス

旅行。網に入ったみかん。車窓からの眺め。そして帰路で眠くなって

しまい、母親にもたれて眠った時間…。その時のうれしさは、この年齢に

なってさえもまだ高揚した気分のかけらが残っている。あの頃の私の拠り所は

母親だけだったのだろう。幼かった…。

 

もうひとつは、小学2年生の時に確か2泊だと覚えているが、母親の友人で

うちと同じように母子家庭だった家族と2組で行った海水浴。知多半島に

ある内海海水浴場に行った。これは、もう、うっとりするほど素敵な時間

だった。明るすぎる太陽、海の香り、潮騒の音、砂の色…。そして母親の

温もり。

 

私が今でも海の傍でゆったりすることが大好きなのは、このような原体験が

影響しているのかも知れない。尤もどういう訳だか分からないが、日本の

海ではあの頃の思い出とシンクロしない。あの時の海は、もっと人が少なく

て、きれいだったから。かれこれグアムに30回近くも行っているのは、

不思議にあの海と重なるからだ。

 

ヨーロッパには12〜3回ほど行っている。歴史と文化に、これまたうっとり

する。アメリカのメインランドには1度も行ったことがないのは、どうしても

選択肢としてヨーロッパが生理的に優先されてしまうからだ。

 

近ごろ、やっと旅行というものに対して、フラットな感情で接することが

できるようになった気がする。国内でも海外でも、私はようやく劣等感に

似た感覚を持つことなく、旅行を楽しむことができるようになった。

そして私は、9日からあの大好きな海を見に行ってくる。


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