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不思議なこと [戦争・原爆・日本人]

以前から疑問に思っていたことがある。それは侵略とか植民地化ということに

ついてだ。

 

日本は中国や韓国から侵略戦争とか植民地支配をされたと言っているけど、

植民地をいっぱい持っていたのはヨーロッパやらアメリカの方じゃないのかなぁ?

旧英国領だの旧オランダ領だの旧スペイン領だの、まぁ、そういった植民地と

されていたアジアやらアフリカの国はかなりの数になる。

 

フランスなんてのは核実験も旧フランス領の太平洋の島の近海で行っていたし。

日本が戦争をしなければ、アジアの国々は早晩、それら欧米諸国の植民地に

なっていたんではないかなぁ?

 

事実アジアの国、ベトナムはフランス領だったし、ベトナム戦争はアメリカが

フランスの代理としてソ連と戦争をしていた。またその戦争には韓国軍も参戦

していた。まぁ、当時は資本主義と社会主義の戦争ではあっただろうが…。

 

どうして、そういった植民地政策を進めていた欧米を、中国や韓国は日本と同じ

ように糾弾しないのだろうか?

 

差別ということであれば、白人が黒人に行った差別はどうなんだろうか?南アフリカ

共和国の差別政策は、ついこの前まで実際に存在していて、それはずいぶん前に

集結した太平洋戦争より最近のことだ。

 

なぜ、そういった欧米諸国は責められること無く、日本だけが未だに言われるだろうか?

それが不思議でしょうがない。

 

 



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戦争・原爆・日本人について。2010夏 [戦争・原爆・日本人]

毎年、この季節には必ず「戦争、あるいは原爆」のことについて

書いてきた。そしてまた、今年も書こうか、と思っている。

 

ただ、いつも同じようなことを書いていても能がないので、今年は

例年とは違った観点から書いてみようと思う。

 

それは「日本人の死生観」もっというなら「日本人の考える死とは」

という観点だ。

 

実は前々から不思議に思っていたことがあった。それは、原爆にしても

沖縄地上戦、日本の各都市への空爆など、数え切れないほど多くの

死者(犠牲者)を(一挙に)米国によって強いられたことに対して、なぜ、

あれほど大人しくしていたのだろうか、という疑問だ。つまり、一般市民を

含めた人々の命を、大量に一気に奪う、という行為において、なぜ、米国を

戦後に糾弾しなかったのだろうか?という疑問だ。(その最たるものが原爆

投下だ)

 

諸外国、特にアジアの中国、韓国は、戦後65年を経てもなお、補償を

しろ、などと言っている。その執念深さに比して、いかに日本人は諦めが

いいのか…、と感じる。

 

敗戦国として関係者が裁判に諮られ、その結果を受け止め処刑、処罰され、

所謂「清算」という奴は形式上、終わったはずだろう。ところがだ。

日本は戦争を始めた国だから、という理由で未だに悪者扱いされ、言わば

連合国側の言い分を正当化するためのスケープゴートにされている。

 

また、その象徴が「原爆投下」だと思われる。戦争を始めた国に落とした

のだから、正義になるのだ。卑怯な攻撃(真珠湾攻撃)を行った国だから、

いつまでも許されないのだ。簡単に言えば、そういうことになる。

 

万が一、ドイツがアメリカに原爆を投下していたら、そしてそれによって、

アメリカとの戦争が終結し、ドイツが勝利したら、その行為は「正義」に

なるのだろうか?

 

冗談言っちゃ、いけない。それはただ多くの命をいっぺんに奪い、人道上

許されない行為として永遠に糾弾され続け、下手をしたら国そのものさえ

その後、奪われていたかも知れない。

 

だが、それは無知であったからこそ行われたことでもある。原爆があれほど

悲惨な結果を生み出すものだとは思っていなかったのだろう。だから、できた。

 

私は、だからこそ、いつも考える。アメリカ人もアメリカも悪くはない。

もちろん、あの時代に戦争をしていた国の人々も、決して悪くはない。

人類が悪いのだ。

 

あの時代、欧米列国が次々とアジアを植民地化していけば、自ずとそれに

拮抗するだけの武力と文化をもっているアジアの国があれば、白人に対して

抵抗をこころみるのは自然なことだろう。

 

あの戦争は、結局最終的には「白人と黄人の戦い」になってしまったのだ。

アングロサクソンを筆頭にした白人たちのプライド。どうにもそれが根底に

あるように思えて仕方がない。

 

第2次世界大戦が始まるそのほんのわずか前の時代、黒人たちは白人たちの

奴隷として、ありとあらゆる残酷な行為を彼らから受けていた。しかも、

戦争という人々の理性が全く働かないような有事の時であれば、敵を倒さ

なければ、という理由が成り立つだろうが、まったくそうではない。

 

敵でもなく、自分たちの家族や友人たちの平和を脅かす存在でもない。

そんな黒人奴隷に対して、どれほど酷いことをしていたか…。肌が黒いから。

文化水準が低いから。そこから推量すれば、黄色い肌の日本人が植民地を持つ、

などということが、あるいは、白人に刃向かうなどは、言語道断だったであろう

ことは想像に難くない。

 

鬼畜米英、アメ公、日本人の彼らに対する冒涜的な表現が「憎さ」から

発想されているのに対して、アメリカ人はJAPだ。これはおそらく人種的な

差別感覚から来ている。やはり白人が上。このことを私たちはきっと

忘れている。(しかし、冷静な目で見れば白く透き通るような肌と、

青や緑などの瞳、金色やうつくしいブラウンの髪の毛を持つ白人と

われわれは悲しいほど違いすぎているわけではある…)

 

そしていよいよ「日本人の死生観」ということになる。私は日本人を美化

するつもりはない、731部隊のことも、南京での虐殺、重慶への空爆、

自国民をも殺めてしまう、狂った思想を植え付けられていたことも、慚愧に

耐えないが真実だと認めている。

 

ここで辿りついたのが、日本人の命に対する潔さだ。切腹、などという

ことをしてしまう民族など世界中皆無だろう。以前にも書いたが、輪廻転生

という感覚が、どこかに染みついている日本人は、何度大火事があろうが、

石で家を建てようとはしなかった。燃えることが分かっているのに…。

なくなってしまうかも知れないのに…。

 

しかも、それは自分の命さえ危険にさらされるということであるのに。

生きて虜囚の辱めを受けず、と教えられ、自害を求められる。あるいは

全員死亡を玉砕と呼ぶ。これらにあるのは「死への美学」だ。

 

何らかの大義名分があれば、死ぬことは美しいことなのだ。そういえば

日本人の自殺率はかなり高い。私自身でさえ、死ぬことを考えると、

なぜだか「かっこ悪く死ぬのは嫌だ」などと思ってしまう。死ぬことに

かっこいいも悪いもないのに…。

 

だから、空襲で多くの人が亡くなっても、悲しみはするが、あまり命に

対しての執念は感じられない。生きることへの執念が足りない日本人。

だから、他国の人にもそれを当てはめてしまう。ああいう時代だったの

だから仕方がなかった…。日本人はそう思う。

 

アジアの人々に確かに酷いことをしてきた日本。それは「死」に対する

見解の相違も大いにあったのではないだろうか。ちなみに、自国の戦死者に

対してもその感覚は同じだ。日本人は「命を軽く見ている」人種なのだ。

 

というわけで今年の「戦争・原爆ブログ」は、終わりです。最後までお読み

いただき感謝いたします。また、内容につきましては、あくまでも全てが

未熟な私のごくごく個人的な意見です。ご了解ください。


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09今年も原爆について。 [戦争・原爆・日本人]

8月15日。終戦の日は過ぎてしまった。仕事が忙しくて更新し

なくては、と思いながらできなかった。遅ればせながら、戦争に

ついて書こうと思う。

 

もちろん私は戦争を知らない。よく言われる(既に過去形になっ

ていて、よく言われた、になっているかもしれない)この「戦争

を知らない」という言葉。

 

おそらくあの有名な曲「戦争を知らない子どもたち」から、よく

耳にする言葉になったのではないだろうか。ところで、ここで

言う「知らない」は「経験していない」という意味であったはず

だが、最近は本当に戦争そのものがあったことや、戦争というも

のがどういうものであるのかを「知識として持っていない」こと

を指し示すようになってきたように思う。

 

つまり「知ろうとしない」「関心がない」「どっちでもいい」と

いうような時代に(日本が)なってきたと。こういうことだろう。

 

私たちの世代は、親が戦争経験者であった。昭和29年生まれの

私は、戦後9年目に生まれた。当時の親は20歳で子どもを持っ

たとしても、終戦の時には11歳だ。29年に30歳で親になれば、

終戦の時は21歳だった。

 

だから、よく戦時中の話を聞かされた。満州から帰還した親戚の

おじさんの話。フィリピンで戦死した知り合いの話。三菱の工場で

飛行機を作っていた話。防空壕へ逃げ込んだ際の話。芋の蔓を食べ

た話。恋人が戦死した人の話…。たくさん、たくさん聞かされた。

 

とは言え、悲しい話や辛い話ばかりでもなかった。勇ましい話も

それなりに聞いた。それは、資源さえあれば、日本の技術力はどの

国にも負けない!といったようなことだった。だから、敗戦国の

子どもは、それでも日本という国に誇りを持ちたくて「零戦」や

「大和」に夢中になった。

 

零戦に乗って敵機を次々に撃墜する日本人。気分はまるで坂井三郎

のような撃墜王になって、子どもの頃は戦争の悲惨さには目もくれ

なかった。

 

そんな子どもたちは成長と共に、いかに日本人にとって戦争が過酷

なものであったかを徐々に知るようになる。そしてその象徴が

「原爆」だった。それまで本土空襲の話や、沖縄地上戦の話を聞か

されても、もうひとつぴんと来なかったが、「原爆」の話だけには、

なぜだか猛烈な憤りを感じた。

 

ものごころが付き自分なりに戦争のことを考えてみた時、相変わらず

どうしても割り切れないもの。それは「原爆」だった。確かにその後、

東京大空襲の様子などを知れば、市井の人々を巻き込んだ大量殺戮に

明らかに怒りを感じたが、それはずっと後だ。

 

それは私が日本人だから?最近、その謎がやっと解けてきた。それは、

あれが「正しかった」と述べるアメリカ人が多いからだと…。

 

先日の新聞にも載っていたが、アメリカ人の男性の実に72%が、

原爆投下は(戦争終結、あるいはあれ以上のアメリカ兵の犠牲者を

ふやさないために)正しかったと答えている。

 

共和党支持者に限定すれば、アメリカ人男女の74%だ。(民主党

支持者は49%)

 

以前にも書いたが、正しい、ということであれば、それは再び同じ目的

であれば用いてもいいのではなかろうか?つまり、朝鮮戦争でも、ベト

ナム戦争でも、イラク戦争でも、アメリカが介入した戦争全般に原爆を

用いればいい。正しい、とはそういうことではないか。

 

あの時は、正しい、と思ったが…。実は、とんでもないことをして

しまった。大変なことをしてしまった。と答えるのが、私としては

それこそ「正しい」と思うのだが。

 

原爆投下の日も、終戦の日もとうに過ぎてしまい、書きかけのこの記事

をまとめられず悶々としていた。誰も待ってはいないとは思うが、

今年も8月に戦争についての記事をアップする。


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今年も原爆について。 [戦争・原爆・日本人]

今年も8月6日と9日がやってきた。毎年この頃には決まって原爆に
ついての私見をこのブログに書いてきた。そして今年もまた、書く
ことにした。

今年もいくつかのドキュメンタリー番組を見た。どこかの民放で見たが、
タレントが出てきて被爆地で微笑む少女のその後を追う、みたいな
全く何を伝えたいのか分からないような番組もあった。

以前オンエアされた番組が再放送されたものも見た。その中でも特に
多かったのは、原爆を投下したB−29に乗っていたアメリカ軍人の
話や、東京大空襲の際に焼夷弾を投下したB−29に乗っていた乗組員
の話だ。

「あれは間違っていなかった」と今でも主張する人もいれば「間違いだ
った」と後悔していると語る人もいた。それはもちろん、人それぞれだ。

誰だってよろこんで人を殺したい、などと思う人はそうそういないはず
だから、それぞれには自分たちを納得させるための理由は持っている。
「あれ以上の犠牲者を出さないために」これが、間違っていなかった、
と主張する人たちの言い分だ。そして「その後の地上の様子などを
後から知って」やはり間違っていたと思う、という人たちはそのように
言っていた。

このことはつまり、あの原爆でさえ「間違いではなかった」いや、言葉を
変えるのであれば「正しい行為だった」「正義のためであった」という
アメリカ人が今でも数多くいるということに他ならない。

「正義」。これはアメリカがよく口にする言葉だ。枢軸国に対して連合国の
盟主であるアメリカ帝国主義が、その義憤を雷として容赦することなく
与えることによって世界は平和を謳歌できるのだと。

また、アメリカの人々はこういう表現もよく使っていた。「日本人は残虐
だから…」と。あの…、私は思う。どこの国でも、いかなる時代でも、
ひとたび国と国が戦えば、残虐な行為をすることに何の逡巡も覚えない人は
いくらでもいたのではないかい?と。

誰かが、あるいは、あの国が、残虐だから、という答えは答えになって
いない、と私は思う。それこそ「大同小異」だ。今の、あるいは遡って
大戦当時の日本人が、それほど際だって残忍で人間として全く憐憫の情
なども持ち合わせていない人種であったとは私には思えない。

では、中国が韓国にしてきたことは、どうであったのか?アメリカや
ヨーロッパが黒人にしてきたことはどうなのか?歴史の中で繰り返されて
きた、そういった「残酷」で、人権を軽んじた「差別」などはどうなのさ、
と。そんなことはいくらでもあるし、つい最近では、同じ民族でありながら
対立する某国で、罪のない民間人の女性が射殺されている。

大量であるとか、殺戮方が、とか、そんなことは人間という生きものが
あのカルト集団によって多くのエリートたちが洗脳されてしまう事実を
目の当たりにすれば、いくらでもあり得ることだと思う。

ところで、実は何が気に入らないかと言えば、その「正義面」がいや
なのさ。あの国は、いつだってそうだ。もちろん、そのことに気が付いて
いる人も多数いるし、あの国の人たちが悪いわけでは、これっぽっちも
ない。あの国が、いつしか思い込んでしまった間違った正義感が、悪い
のだと、思う。

そりゃ私がアングロサクソンならだよ、黄色い肌をした奴らが白い肌を
した人間たちと同じように「植民地」なんてものをつくりはじめたら、
腹立たしく思うだろうさ。自分たちより明らかに下等だと思っていた
連中が、ロシアの艦隊を破ってしまうなんてことは…。

しかもアジアの国々はアジアの盟主である日本が統治するべきだ。なんて
ふざけたことを言い出したら、絶対に潰してやろうと思うだろう。許せ
ない!だって、あいつら肌が黄色いんだぜ、そんな奴に…。石油なんて
供給してやるもんかい。

3月10日の東京大空襲だって、日本が前に重慶で絨毯爆撃をしたんだから、
やられて当然…。おまけに何度も言うけど「日本人は残虐だから」他の国
でも酷いことをしてきているから、仕方がないって。こいつは「正義」さ。

くどいけれど、もう一度言おうかな。どこの国もいっしょだって。あの国
だけが「正義」という言葉を臆面もなく使うけれど、どこもみんな、いつ
だって「正しいと思い込まされて」厭々やってたんだよ。ホントはさ。

ドイツはヒトラーという狂信的な大悪人がいたから、ある意味戦後の精算は
彼をスケープゴートにしてしまえばうまくいく。

戦後の日本は、きちんと戦争責任を取ることなく、今でもアジアの諸国から
悪人扱いされている。ちょっと待って。敗戦国って責任を免除されるんじゃ、
なかったっけ?

日本の戦後は、やっぱりおかしい。みんなマクドナルドをよろこんで食べて
いる!何かしてもらってもお礼も言わないし、電車の中で若い女性が化粧を
している。

最後に一言。以前から不思議に思っていたこと。どうして、日本は原爆を
落とされて、あんなに酷い目にあったのに、その謝罪や補償をアメリカに
求めないのか?在日韓国人も原爆症になったのは、日本が戦争を始めたから、
日本が悪いって言うけれど、原爆落としたのはどこの国なんだろうって。

私は誤ったものの見方をしているのかもしれない。でも、原爆が落とさ
れて、それが「正義」になった時から、明らかな過ちを何かとすり替えて
弁解する日本人がふえたような気がする。「なぜ、そんなことをするんだ?」
「だって、他の人もやっているから」なるほど、その行為は間違っては
いないんだ…。ひょっとして、それがGHQと我が国が目指した民主教育
かもしれない。納得。民主主義万歳!
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8月6日に [戦争・原爆・日本人]

6日の日に新聞のテレビ欄を見ていた。それは当然「原爆関連の番組」がどの局で放送されるのだろうか、という興味からだ。しかし、それらはほぼゼロであった。(全くなかったわけではない)正直、失望した。(当たり前だが、一応、ニュースでは報道されはしたが…)

アメリカのHBOでは、原爆の映画を1ヶ月にわたって今、流している、とテレビの報道で知った。英断?によって、お蔵入り寸前であったSATCを制作し、ある種のニューヨークブームを巻き起こした、あのHBOがだ。有料チャンネルの局として、もちろん採算性ということがかなり優先されると思われるのに…。これこそ英断!(そういえば、SATCにもエイダンという名前の登場人物がいたような…)

私はアホだ。疑う余地もないほどアホだ。だからこそ、信条は「粗にして野だが卑に非ず」である。そして、こんなアホな私でさえ、日本は被爆国として世界中に戦争の愚かしさと、核兵器の恐ろしさを伝えなくてはいけない義務を担っている筈だと考えている。

その国、日本の、それも8月6日に、マスコミは驚くほど静観を決め込んでいた。ひょっとしたら原爆を投下した国、アメリカの方がむしろ改めてあの戦争、原爆を問い直しているのでないだろうか?こんな馬鹿げたことがあっていいのだろうか?

教育とは何なのだろうか?ということを時々考える。教え、育むものとは一体?それは、いつの時代であっても、人としての道を自らの主観を交えながら若者に問いかけることではないのだろうか?そしてそれは、学問という真理を知ることと、同じように価値あることではないのだろうか?

無論、人間として未成熟であることは承知の上、それでも私は、これだけは言わなくてはの焦燥感が常にある。何を偉そうに、おまえがそんなことを言うなんて!でもしかし、飲んだくれのおっさんが「これだけは真面目に聞いてくれよな」という、ごくごく我が儘な時間を頂くことは、この年齢ならではの特権だと勝手に勘違いすることもまた、あり、だと思う。年齢は、疎ましい反面、解釈次第ではアドバンテージにもなる。

風化しつつあるさまざまな事実。形骸化していく日本人のモラル。どうして自分は生まれてきたのだろうか、ということを今更ながら考えてみることにする。(ああ、また今回も思っていることを上手く伝えられなかった…)


原爆に思うこと [戦争・原爆・日本人]

どういう訳か、かなりの文字数を書いた原稿が消えてしまった…。かなりのショックであるが気を取り直してもう一度書くことにする。今日は「原爆」のことである。

先日、山口瞳さんの本を読んでいたらこんなことが書いてあった。それは山口さんが、サントリー宣伝部に勤めていた頃の話である。サントリーの就職試験を受けたコピーライター志望の若者が、かなりの倍率の1次試験を突破して面接にやってきた。2次試験の面接でも彼は面接官の質問によどみなく答え、学生であるにも関わらず広告用語を熟知しており、非の打ち所のない受け答えをしていたそうだ。けれども、その非の打ち所のなさが逆に気になった山口さんは、彼にこう質問したそうだ。「ところで、あなたは8月6日と9日、そして15日は何の日だか知っていますか?」

彼は「知りません」と答えた。結果、山口さんは彼を採用する気にはなれず、採用不可にするように社の採用担当に進言したとのこと。さもありなん、である。この話は相当前のことだと思われる。何と言ってもまだ山口さんが作家として活躍する以前の話、サラリーマンとしてサントリーの宣伝部に勤めていた頃の話なのだから。

私は原爆を投下した、と言う理由でアメリカを責める気にはならない。戦争は狂人がイニシアティブを握るものだと思うから…。で、なければそもそも戦争は起こらない。とは言え、である。その戦争であっても最低限のモラルはあった。何せ「戦争法」などという国際法が事実存在していたのだから。つまり、宣戦布告の義務、とかである。あるいはダムダム弾は使わない、とかもその中の事例である。で、アメリカ人は真珠湾攻撃を仕掛けてきた日本が悪い!原爆は戦争を終結させるために使われたのであって、アメリカは全く悪くない。とキッパリと言い切る。先日のテレビ番組にも広島に原爆を投下した際に、その模様を撮影していたアメリカ人が出演してそう言っていたそうである。真珠湾攻撃については真相がまだよく分かってはいない。日本軍はアメリカの日本大使館に向けて、宣戦布告の旨を通告するよう電文を送ったが、大使館員が不在で実際にその電文を見たのが数時間後であった。その前にすでに真珠湾攻撃が行われてしまったとか…。真相は分からない。

ただ、ここで思うのは「原爆」によってもたらされた甚大な被害と、その後の被爆者のことを考えれば、それを「教訓」あるいは「戒め」としてアメリカも、あれは間違っていたと認めるべきだということである。もしも仮に原爆投下が「戦争終結のため」という正義であれば、(そう言い張るのであれば)アメリカはベトナム戦争でも原爆を使うべきであったし、イラクにも核ミサイルによる攻撃をすればいい、ということになる。だって、それは「正義」なのだから…。間違っていないというのであれば、その後も放射能をまき散らす兵器を使うことに何ら逡巡する必要はない。

日本が正しかった、などとはもちろん思っていない、細菌兵器の研究で中国人を「丸太」と呼んでいたことも事実である。南京大虐殺も、従軍慰安婦問題でも日本は弁解の余地はない。しかし、今だにそのことをアジア諸国から糾弾され、罪もない日本人留学生がビール瓶で頭を殴られたり、サッカーの応援に行っただけの日本人が「小日本人」などと侮辱されている。それもまた、事実である。これはどういうことなのか?つまり、原爆を世界で初めて投下した国がアメリカではなかったら、世界中の国はどう思ったであろうか?ということだ。もし、ドイツが、イタリアが、そして日本が、その最初の国であったなら…。何だか、世界はアメリカに寛大である。

ベトナム戦争でナパーム弾を使い、枯れ葉剤でベトちゃん・ドクちゃんらの人生を台無しにしたアメリカは、それでも平然としている。「正義」などは戦争ではありえない。だからこそ、もういちど「原爆」について考えなくてはならないのではないだろうか…。そして、私たちは日本人としてやはり、永遠に「原爆」については語り継いでいかなくてはならない。

アメリカは不思議な国である。大リーグで活躍する野球選手は、肌の色に関係なく拍手と歓声を受けている。その影でKKK団は白人至上主義を掲げて活動している。かつてベトナム戦争で疲弊していた頃のアメリカ人はマクガバンを大統領候補に押し上げ、あわや、というところまで対立候補を追いつめた。実際、ジーンズをはいた平和主義者のジミー・カーターはマクガバンの後継者として大統領に選出された。自由と平和の国、アメリカはまた、日常的に銃による殺傷事件が起きている国でもある。

エノラ・ゲイで広島に原爆を投下したパイロットは英雄気取りで、全米中で講演会を開催している。講演会終了後は著書にサインをして、微笑みながら本の販売に余念がない。スミソニアン博物館にはエノラ・ゲイが展示されている。それも被爆の悲惨さを伝えるためではなく、戦争を終わらせた美談の象徴として…。国やその国の人々を憎むのではなく、人間の愚かさを知り、世界中の人々たちが改めて「人間として、してはいけないこととは何か?」を考えること。これこそが唯一「原爆」を投下された国として、日本が世界中に発信しなくてはならないメッセージではないだろうか?

「愛は地球を救う」なんて偽善的で表面的な番組をつくり、子どもたちが瓶に入れた小銭を寄付する、といった行為で自己満足させながら「いいことしちゃった…」と思わせる。そんなことが私は子どもたちのモラルの醸成につながるとは到底思えない。できれば局さんたちよ、全局協力して、8月6日だけは24時間「原爆」についての番組を流してくれないだろうか。


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